鹿屋航空基地資料館

海上○衛隊鹿屋基地の正門前に資料館がある。

この資料館は、無料で○衛隊以外の人も入場できる。

ステンドグラス「夕映桜島」原画:平山郁夫

玄関を入ると正面に桜島を描いた大きなステンドグラスがお出迎え

桜島を眺めながら出撃していった特攻隊員たちの想い
鎮魂と平和の願いが込められている。             追加2014.2.17撮影

退役した航空機が並ぶUS−1A(救難機)

後はP2J(対潜哨戒機)

前回来たときは時間が取れなかったが今回は入館できた。

しかし、入館したのが16時で閉館が17時、たったの1時間である。

 

とても無料とは思えない充実した資料館で1時間では全く足りなかった。

案内のビデオなどを見ていたらあっという間に閉館の時間となった。

 

資料館は日露戦争の英雄、東郷平八郎の資料が多い、さすが鹿児島である。

 

 

館内撮影禁止であるが、復元された零戦だけは、撮影OKであった。

平成4年2機の零戦が錦江湾と吹上浜から引き上げられ、復元された。

零式艦上戦闘機52型(三菱)

最大速度:時速約565km

航続距離:1920km

胴体:7.7o機銃×2

主翼20o機銃×2

30kgまたは60kg爆弾×2

零戦は、昭和15年96式艦上戦闘機の後継機として誕生した。

約1000馬力のエンジンを搭載し航続距離、旋回性能、速度とあらゆる矛盾しうる性能を克服した世界最強の航空機であった。

 

格闘戦を最も得意とした零戦の戦い方は、一対一で戦う武士道の精神が受け継がれているといえる。

零戦は緒戦において真珠湾、マレー、ラバウルと快進撃の原動力であり、米軍のF4Fワイルドキャットも敵ではなく無敵をほこった。

日本の航空戦力を侮っていた連合軍にとって零戦は、大きな脅威となった。

三菱重工 堀越二郎率いる設計陣が作り出した当時世界最強を誇った傑作戦闘機である。

しかしながら、ミッドウェー海戦と同時に行われたアリューシャン攻略作戦の際、米軍に無傷の零戦の入手を許し、その性能は徹底的に研究されるに至った。

 

零戦が機動性をあげるため、防御がおろそか(パイロットの命を守る鋼板の省略、丸裸の燃料タンク)であることや、徹底した軽量化のため、薄い外板で作られ、鉄骨は穴の空いた構造で、急降下を続けると空中分解してしまうこと。

さらに、6000メートル以上の高度では性能が極端に落ちるといった欠点を完全に暴かれてしまうことになる。

 

人命軽視の設計思想

熟練したパイロットの方が航空機より重要な航空兵力である。

そして、F6Fヘルキャット(2000馬力のエンジンを搭載)が登場する。

 

零戦の活動限界の上空から急降下による一撃離脱戦法(攻撃後は、格闘戦はせずにそのまま、急降下を続けて逃げる。)、2機でジグザグ飛行により挟み撃ちにするサッチ・ウェーブ戦法などにより零戦の優位は完全に覆された。

 

終戦間際、紫電改、陸軍では五式戦闘機などの重戦闘機が出現したが戦局を挽回することは、できなかった。

 

そして世界一を誇った零戦は、特攻機として終焉を迎えることになるのである・・・・

 

6000メートル以上の高度になると途端に性能が落ちた。

つくづく、残念なのは零戦が優位であったミッドウェー海戦の時に敵の機動部隊を撃滅させておけば・・・ということである。

 

百戦錬磨のパイロットを失うことなく制海権を維持できていれば、日本は余裕を持ってその後の戦いができただろう。

零戦や隼の後継機(重戦闘機)の開発も十分間に合っていたかもしれない。

 

 

いずれにしても、戦争の退き際を考えていなかったのだから遅かれ早かれ結果は同じであったろう。

 

基地の売店で売っていた鹿屋海軍航空カレー

鹿児島産黒豚が使用されている。

 

いとま放浪記77777の記念品とさせてもらいました。

19.10.9(火)

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追加 2013.2.20及び2014.2.1撮影

朝もやの中噴煙を上げる桜島  垂水フェリー


溶岩道路

溶岩道路からみた桜島

桜島フェリーから見た桜島

 

 

byいとま放浪記