水城〜都府楼・観世音寺〜大野城〜元寇防塁
大長編レポートになった。
地図に記された水城跡地を探訪した。
しかし、住宅地が密集し水城跡の全貌が見渡せる場所が見つからない。
軽四でぐるぐる回り、ようやく水城の端っこに到達
説明書きがあったのでデジカメで撮影。(ソフトで読みやすいように修正したので読むように)
日本と朝鮮半島の関わりは古い 4世紀末から5世紀の初め強大な力を持った高句麗が朝鮮半島を南下してきた。 その時、大和朝廷の軍勢は海を渡り、百済と新羅を助けてその征服を阻止したという経緯がある。
その後も朝鮮半島では三国が攻防を繰り返していた。 そして百済は滅亡した。
太宰府を守るため防人を置き、大野城と基山に山城を築き(後説)、平地を水城で遮断したのである。 |
つまり水城は太宰府を守るために築かれた訳である。
そうなると当然、都府楼跡(太宰府政庁跡)に行かなければならない。
都府楼跡
奈良、平安時代における九州の政治中枢である。
その役目も平安時代の末には終え田畑と化した。
昭和43年から発掘、保存が始まり、公園としても整備されている
都府楼跡のそばには資料館もある。
井上さんのページ:太宰府展示館写真バッチリあります。
リンク許可済み
太宰府政庁の再現模型や、太宰府文化のシンボルとも言うべき鬼瓦など貴重な出土品が展示されている。
資料館の方が親切に説明してくれたおかげで、太宰府政庁とその防衛のために築かれた水城、大野城(朝鮮式山城)などの状況がよくわかった。
資料館を出てさっそく大野城に登った。 |
中央:国道と交差する水城跡
全長1.2KMもあり当時は水を蓄えた堀をともなっていた。
大野城(朝鮮式山城)の石塁跡
大野城には馬蹄状に石塁が築かれていた。 太宰府が攻められるような場合には、いったんこの山城に非難し持久戦に持ち込むというものである。 向かいの基山(佐賀県)にも同じような山城が築かれ、その間の平地を水城で遮断し太宰府を守ったわけである |
元寇防塁
最初に作られた今津の防塁
元寇の防塁は今津から香椎まで博多沿岸20KMにもおよび築かれた。
砂浜を掘り、柵を設けて保存されている。
※ 生の松原海水浴場には柵のない防塁跡があるらしい
はるか元寇の時代に思いをはせる知的少女たち
13世紀の初め、元(モンゴル帝国)は騎馬軍団にてユーラシア大陸の大半を征服し、日本に対しても武力を背景に服属するように促してきた。 そして日本側の激しい抵抗を受けて、船に引き返したところを暴風雨に見舞われ退却していった。 |
元寇防塁(今津)のそばにはある公園
ビデオによる元寇に関する歴史発掘復元作業の説明も見られる。
元寇は2度にわたる暴風に助けられ、勝利につながったことから神の力による神風と信じられた。 それよりもこの危機に朝廷と幕府が協力して対処し、幕府の統制のもとで武士たちが勇敢に戦ったことを忘れてはいけない。 |
05’ 5. 2〜 8.18
参考:市販本 新しい歴史教科書(扶桑社)
NHK「その時歴史は動いた」
勝者の戦略 杉山徹宗(光人社)
おまけ
清水山観世音寺
観世音寺は天智天皇(中大兄皇子)が母の斉明天皇の冥福を祈るため、創建したものである。
観世音寺宝蔵には高さが5mにもなる国宝の十一面観世音菩薩立像、馬頭観世音菩薩立像などが並ぶ。
さらにおまけ
城山が築かれた基山に超人気のラーメン屋「丸幸ラーメン」
この度リニューアルOPEN
いつもトラックの運転手たちで満員である。
大盛りのラーメン
チャーシューが3枚入って460円
美味くて安くて量が多い
理想のラーメンである。
水城ゆめ広場(2014.11月完成 追記2015.1.8)
私が、水城散策に苦労した上のレポートから約10年後、水城ゆめ広場という散策の拠点ができた。 国特別史跡「水城跡」の「西門」跡近く(福岡県道31号線沿い) 広場の面積は約3千平方メートル。発見された西門跡まで約500メートルで、歩いて行ける。 途中で変な猫に因縁をつけらた。 西門跡 梅が咲き始めてました。 2015.1.25 |