カーナビに見入るテン おもしろいのだろうか? |
実家(山口)の墓参りを終え 翌日は、広島在住の弟の家に遊びに行った。 お昼時に到着していしまい、広島風お好み焼き(画像なし)をご馳走になった。 |
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大和ミュージアム
興味があるのは自分だけであったが、弟の家族も車に乗せて、連れて行った。
かわいそうだが、テンは足手まといなので、弟宅の玄関につないできた。 |
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戦艦大和は、S16年12月16日 旧呉海軍工廠(こうしょう)で4年の歳月と、国家予算の3%(当時1億5千万円)をかけて建造された。
大艦巨砲主義
日露戦争「日本海海戦」における日本海軍の劇的な勝利の結果、世界中で戦艦建造競争が始まった。
各国は、相手の砲撃が届かない遠距離から攻撃できる(アウトレンジ戦法)主砲を搭載できる戦艦の建造を急いだ。 戦艦大和は、その最高峰といえる。
当時世界で戦艦に搭載可能な限界とされていた40.6センチ砲の有効射程は38kmであったが、常識をうち破った大和の46センチ砲は、有効射程41kmであった。 この主砲の口径は国家最高機密とされた。
大和建造の引き金は、ワシントン・ロンドン軍縮会議にある。 日本は、海軍力を米英の6割に押さえられたため、知恵を絞った結果が数を巨艦で補うということであった。 |
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不沈艦
大和には、1147の防水区画が設けられ、片側に攻撃を受けて浸水した場合、反対側の区画に自動的に注水しバランスを保つという画期的なシステムが装備されていた。 また、装甲板の厚さは、410mmで大和と同じ46センチ砲で攻撃されても貫通できない強度であり、まさに不沈艦であった。
バカでかいと思われるが、専門家は、これだけの新技術や装備を有しているにも関わらず、実にコンパクトな船体であるのが特徴であると賞賛する。
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高角砲、機銃
大和の艦橋周辺には沢山の高角砲や機銃が装備されているが、これは、航空機からの攻撃を防御するために追加されたものである。
つまり、航空機からの攻撃を当初想定していなかったということである。 |
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真珠湾攻撃
開戦初頭、日本は、空母から発艦した零戦の魚雷攻撃により、真珠湾に停泊中の米太平洋艦隊を次々と撃沈し、「これからの戦いは、航空機が主力であり、艦隊決戦ではなく空母対空母の航空機による制空権の争いになる。」ことを知らしめた。
ところが、攻撃を受けたアメリカ側はいち早く対応し、空母の量産体制(1週間に一艦建造)にはいったが、日本は大和に続き武蔵を建造し、さらに信濃の建造にも着手する。
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大和は、ミッドウェー海戦ではじめて参戦し、連合艦隊主力空母の後方550kmの位置で艦隊決戦に備え待機していたが、日本の空母機動部隊が壊滅し、その主砲を撃つこともなく撤退した。 その後、トラック島で戦うことなく停泊し、大和ホテルと揶揄される。 たとえば、ガダルカナル作戦で陸軍を艦砲射撃で援護するなど、活躍の場はあったはずであったが、終戦間際まで温存され続けた。
ミッドウェー海戦で虎の子の空母艦隊を失った海軍は、建造中の信濃を急遽空母に設計を変更し改造するが時既に遅しであった。
マリアナ沖海戦 日本は、マリアナ沖海戦で残存兵力を集結してアメリカとの決戦に望んだが、空母も戦艦も艦載機もアメリカ側の半分程度でしかなかった。 しかも、艦載機(零戦)のパイロットは新人ばかり、それというのも歴戦のパイロットは、ミッドウェー、ソロモンなどの海戦で、ほとんど戦死していたからである。
出撃した零戦部隊は、アメリカの新型レーダーにより捕捉され、高々度で待ち伏せるヘルキャットの急降下攻撃(一撃離脱戦法)で次々と撃ち落とされた。 制空権を失った空母や戦艦は、ことごとく撃沈された。
大和の主砲が火を噴いたことがある。それは、レイテ沖海戦で、たまたま遭遇した小型空母(大量生産された50隻の1隻)を主砲で撃沈したものである。
このレイテ沖海戦では、同型艦の武蔵が航空機からの魚雷攻撃により撃沈され、海軍は、巨大戦艦の時代が終わったことにようやく気がついた。 |
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特殊潜行挺「海龍」 零式艦上戦闘機62型 |
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九州南西沖 海底350mに沈む大和の模型 |
1億特攻の魁(さきがけ)
完全に制空権、制海権を失った日本は、S20年4月米軍の沖縄上陸を許す。 大和は、同胞が必死で戦っている沖縄に向けて、出航した。 しかし、十分な戦闘機の護衛も無いまま、米軍に発見され、九州南西沖で航空機からの魚雷攻撃を左側だけに11発受けて真っ二つに折れて海底に沈んだ。 伊藤長官以下乗組員3063名の尊い命が奪われた。
頑なに特攻作戦に抵抗した伊藤長官は、「一億特攻の魁となれ」という上層部の説得に、ついに応じたという。
特攻、それは崇高な散華であり、当時の日本人、軍人の美学であったのかも知れない。 しかし、その多くは悲惨な溺死だったといわれる。 現実は、美学などと片づけられるものではなく地獄であったはずである。 |
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大和は日本の誇り
日本は、幕末の黒船来航に驚愕し、富国強兵に邁進した。 その最終到達点ともいえるのが戦艦大和である。
その技術は、戦後の造船や自動車産業に生かされ、日本復興の礎になった。
「敗れて目覚める。」 まさに大和の終焉が日本海軍と戦争の終わりを告げるとともに、現在の日本の始まりであったのだ。
悲惨な戦争体験を忘れず、二度と悲劇を繰り返してはいけないと誓うと共に、大和のような戦艦を造り上げた日本という国を誇りに思うことも忘れてはいけない。
「こうした偉大な戦艦を造り得たことは、大いに民族的な誇りとして自負して良いと思う。」
大和とともに沈んだ 第二艦隊司令長官 中将 伊藤整一 |
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ミュージアムの一角には、松本零士のコーナーもあった。 |
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宇宙戦艦 |
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大和ミュージアムを出ると、向かいにある海上○衛隊呉史料館(入場無料)に入ってみた。 みんな仕方なく、私についてきているようであった。(笑) 海上○衛隊さんたちの食事のメニューなんかも展示されていて、なかなかおもしろかった。
その夜は、弟宅で晩ご飯をご馳走になり、姪っ子や貴重な甥っ子(女の子ばかりなので)とお絵かきして遊んだ。 弟とちょっと飲み過ぎた。 次は、是非我が家にも遊びに来るように! |
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原爆ドーム |
広島平和祈念公園
翌日は、広島平和祈念公園に行った。 広島、長崎の原爆投下や大中小都市の無差別爆撃により、多くの一般市民が犠牲になった。 「敗れて目覚める。」には、あまりにも犠牲が多すぎたんではないだろうか。
せめて、マリアナ沖海戦の決戦で負けた時点で降伏することができていたら・・・と今になって言ってもどうしょうもないが
この日は、終戦記念日、犠牲者のご冥福を祈ることしかできない。 |
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テンと木陰で一休み
資料館には、子供たちに勉強の為に行かせて、私とテンは、公園の木陰で休憩した。
道行く観光客から、「賢そう」とか「かわいい」と褒められるテン
「写真撮っていいですか?」と英語で訪ねる韓国人観光客も現れる。
親としては誠にうれしい限りである。 |
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宮島(厳島神社)
国道沿いを走ると、宮島行きのフェリー乗り場に到着
駐車場のおじさんから、ペットもフェリーで渡れると聞き、一安心
船内でもおとなしいテンは、人気者であった。 |
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沢山の鹿がたむろする。 |
島に到着し、厳島神社に向かって歩く。
あちこちに鹿が沢山いるのに驚いた。 |
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鹿に立ち向かうテン |
モミジ型のカマボコ 小腹が空いたので、モミジ型のカマボコを食べる。 油断した三女は、後ろから忍びよった鹿に、カマボコをパクリと食べられた(笑) モミジ饅頭アイスも食べる。(写真忘れた) |
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紙を食べてる。ヤギか!? |
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厳島神社の手前、テンは、気分が悪いという長女とここで休憩して、待つことになった。 |
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大鳥居 ものすごく磯臭い |
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厳島神社 |
五重塔 |
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豊国神社本殿(千畳閣) |
厳島神社は眺めるだけで、入場しなかった。 子供の頃、入ったことがあるし・・・
しかし、せっかく来たのにちょっともったいなかった気がする。 やっぱり、入れば良かった。
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錦帯橋 岩国の錦帯橋 山口県出身でありながら、初めて見た。 |
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錦帯橋も渡らずに眺めただけ 渡っておけば良かったな・・・と後悔ばかりである。 |
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疲れて眠るテン |
すっかり日も暮れてきた。
国道2号線をひた走り、下関の手前でようやく高速道路に乗る。 自宅(福岡)に到着したのは夜11時過ぎであった。
2008.8.15
参考: NHK「その時歴史は動いた」 戦艦大和の悲劇〜大艦巨砲主義時代に敗れる
文藝春秋 特別企画 父が子に教える昭和史25の「なぜ?」 R戦艦大和は時代遅れの「鉄の塊」だったのか? 解答者:平間洋一氏
※ ほとんど上記資料の受け売りです。
08’08.15 |