篤姫と薩摩の偉人たち

桜島フェリー?と桜島(右上:噴煙)

ドルフィンポート

鹿児島県民になってまもなく丸2年

ようやく鹿児島観光の機会が訪れた。

 

鹿児島中央駅のコインロッカーに荷物を預け、観光バス「カゴシマシティビュー」を上手に利用しながら徒歩で回った。

 

まずは、ドルフィンポート(鹿児島市錦江湾)に、期間限定でOPEN中の「篤姫館」を訪れた。

 

館内は、大河ドラマ関連のコーナーのほか篤姫にちなんだ豪華な着物や調度品などの展示物があり、特に江戸城内をCGで再現したハイビジョンシアターが圧巻であった。

篤姫や和宮が身につけた豪華絢爛な衣装の映像も紹介されている。

 

 

 

 

 

指宿市(篤姫の生家、今泉島津家があった。)には、「いぶすき篤姫館」があるようであるが、ちょっと遠いのでそちらは、またの機会にする。

 

 

御鈴廊下風エントランス

 

 

※パネル以外は撮影OK

篤姫体験セット

篤姫は京都や江戸へ出発するまでの約2ヶ月を鶴丸城で過ごした。

西郷隆盛と勝海舟(於:薩摩川内「戦国村」西郷記念展)

江戸城無血開城の裏には篤姫の徳川家存続を願う嘆願書があった。

篤姫は、今泉島津家の島津忠剛(ただたけ)の長女として生まれ、本家である島津斉彬(なりあきら)に見いだされて養女となる。

 

近衛家の侍女、幾島から礼儀作法や言葉遣いをならい、その後近衛家で、将軍家御台所としての礼儀作法を身につけ、斉彬の実子として、徳川家定のもとへと輿入れすることになる。

ちなみに、このときの嫁入り道具の準備をしたのが西郷隆盛であった。

 

篤姫は、家定の死後(わずか1年の結婚生活)、天璋院と称し、和宮とともに大奥を取り仕切ることになる。

そして、薩摩から嫁いだ身でありながら、徳川存続に命をかけることになった。

(女の道は一本道にございます。)

 

戊辰戦争では、倒幕軍の参謀総長である西郷に侍女を使わせ徳川家存続を嘆願したことにより、江戸城無血開城に至ったと言われている。

鶴丸城跡とお堀の鯉

小松帯刀

 

篤姫の幼なじみである肝付尚五郎

ドラマでは、篤姫に密かな思いを寄せる。

肝付家から小松家の養子となり、小松帯刀(たてわき)と改名、薩摩藩城代家老として、西郷隆盛や坂本龍馬を支えた。

 

特に、坂本龍馬との交流が深く、貿易会社(亀山社中)の設営に援助したり鹿児島に新婚旅行にきた時には別邸に泊めさせるなどの世話をしている。

 

大政奉還や王政復古に尽力したが、残ながら体が丈夫でなく、36歳の若さで他界している。

鹿児島県文化センター前

鉄製150ポンド砲

アヘン戦争により中国がイギリスの植民地となったことから、次は日本であるといち早く危惧したのは、薩摩の島津斉彬であった。

斉彬は、国を救うにはまず幕府を改革し、国を開かないといけないと考え、篤姫に次期将軍に一橋慶喜を推挙する密命を持たせたが、それはかなわなかった。

次に、クーデターによる幕府の改革を企てたが、その軍事訓練中に病に倒れ死去した。(享年50歳)

仙巌園と集成館

 

薩摩藩は、近代日本の発祥の地といわれている。

開国、通商を求める諸外国の圧力を特に強く受けていたため、島津斉彬は、城下に製鉄、造船、紡績、ガラスなどたくさんの工場を作り(集成館事業)、これを全国に広め日本を強く豊な国にしようと構想を描いていた。

日の丸の発案者も島津斉彬である。

反射炉跡

仙巌園(電線がじゃまだったので修正)

梅が咲きほころぶ

錫門

仙巌園には、大河ドラマ「篤姫」のロケ地がたくさんあり、見覚えのある風景が飛び込んでくる。

 

 

 

日が昇るに従って、桜島のごつごつした山肌が徐々にはっきりしてきた。

 

曲水の庭

 

ここで宴が催されたようである。

磯御殿

 

お茶菓子とお抹茶

磯御殿は、島津家の別邸として建てられたものであったが、明治には本邸として使用されている。

 

仙巌園の入場時に磯御殿の見学をセットで購入したので、御殿の中も見学できた。

 

ガイドさんが説明しながら各部屋を細かく案内してくれる。

 

見学が終了するとお茶屋に案内され、お茶菓子と抹茶をご馳走になった。

 

とても得した気分になった。

仙巌園に入場する際は、磯御殿とセットで入場することをお勧めする。


                                      追加 2013.02.20撮影

西田橋

 

篤姫が輿入れする際に通ったと言われる。

石橋記念公園前で下車し、多賀山公園の東郷平八郎の銅像〜西郷隆盛のお墓のある南洲公園まで歩く

石橋公園には、薩英戦争の時の砲台跡も残されている。

薩英戦争砲台跡

多賀山公園を登ると時代は飛んで、日露戦争へ

 

日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を破った東洋のネルソン東郷平八郎の銅像である。

多賀山公園の一際高い場所にあり、錦江湾と桜島を見下ろしている。

東郷平八郎の墓

東郷平八郎生誕地跡(別撮影)

(於:加治屋町)

銅像の場所から桜島を望むと錦江湾に連合艦隊が!?

東郷平八郎については、記念艦三笠のレポートをご覧ください。

大瀧小学校(敬天愛人・奮励努力の文字が!)

南洲公園に向かう途中、小学校の校舎に「敬天愛人」「奮励努力」の文字が貼られてあった。

 

「敬天愛人」は、西郷がよく使った言葉で「天は平等であり、天を敬うということすなわち、自分を愛するように他人も愛せよ。」という意味である。

 

「奮励努力」は、バルチック艦隊との決戦の時に、掲げられたZ旗「興国の興廃この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」の言葉である。

 

鹿児島には、いまも郷中(ごじゅう)教育がなされているだろうか?

頼もしい限りである。

西郷隆盛のお墓

南洲公園に到着すると、たくさんお墓があるが、西郷さんの人気は絶大である。

 

西郷南洲顕彰館(上竜尾町)

「西郷南洲顕彰館」では、西郷隆盛の生涯をジオラマや蝋人形などの展示で学ぶことができ、西郷や大久保の生涯をまとめたビデオも見られる。

入館料はわずか、100円である。

 

南洲翁遺訓により西郷の偉業は広く知られるようになる。

戊辰戦争で西郷の率いる北越征討軍は庄内藩(山形県)を降伏させるが、「敗者はいたわるのが武士道だと」寛大な処置をしたことから、庄内藩の人々は西郷を慕うようになり、南洲翁遺訓を刊行し西郷の偉業を全国に紹介したのである。

 

鹿児島の歴史を一目で見たいなら、鹿児島中央駅近郊加治屋町にある「維新ふるさと館」がお勧めである。

鹿児島の維新の志士たちの生涯や薩摩武士をはぐくんだ郷中教育などが様々な思考をこらした展示で体感できる。

 

館の隣には、西郷と大久保の生誕の地がある。

維新ふるさと館(加治屋町)

 

西郷隆盛と大久保利通

西郷と大久保(3歳年下)は、同じ加治屋町に下級武士の子として生まれ、共に郷中教育(薩摩藩の青少年教育システム)で育ち、西郷は、島津斉彬に見いだされ、頭角を現していくが、大久保は斉彬の死後、自力で久光(斉彬の異母兄弟)に取り入り出世していくことになる。

西郷隆盛の生誕地(加治屋町)

大久保利通の生誕地(加治屋町)

倒幕後は、共に明治新政府の建設と運営に尽力してきたが、朝鮮派遣問題で決別することになる。

教科書では西郷隆盛は征韓論を唱えて、それが明治新政府に受け入れられず下野したと教えられている。

そして多くの人がそう思っている。

しかし、西郷が唱えたのは征韓論ではなく、遣韓論であった。

西郷は武力で開国させようとするのではなく、丸腰(軍艦などの護衛なし)で平和使節として朝鮮に行き、講和を結ぼうとしていたのである。

西郷は丸腰で行く遣韓論を主張 

 

閣議の様子(於:薩摩川内「戦国村」西郷記念展)

西郷は、「自分が使節として行けば、朝鮮は、私を殺すだろう、そうなれば正々堂々と朝鮮を征伐できるではないか。」といった趣旨の手紙を書いて、征韓派を説得した。

もちろん、本意ではなく、説得するための口実であった。

苦労して勝ち取った閣議決定であったが、欧米視察から帰国した岩倉具視、大久保利通らの反対(画策)で覆された西郷は、下野する。

西郷に同調し、土佐勢の板垣退助、副島種臣、肥前勢の江藤新兵らも職を辞した。

日本は、攘夷から開国へと柔軟に変化したが、未だに鎖国状態にある朝鮮を開国させてロシアの南下を阻止するため、共に協力する必要があった。

しかし、朝鮮は日本を見下し、開国には応じようとしなかった。

 

西郷は、板垣退助らの「無礼な朝鮮を打つべし」という強硬な征韓論を説得することに成功し、自ら全権大使として朝鮮に行くことが閣議決定され、太政大臣三条実美を通じて天皇に奏上されるところであった。

しかし、病で倒れた三条の代理になった岩倉具視が、閣議決定を覆し白紙に戻したため、西郷は憤慨し、職を辞して薩摩に下野したのである。

これにあわせて土佐の板垣や肥前の江藤らも職を辞することになった。

 

「西郷が行くと間違いなく朝鮮と戦争になる」とねじ曲げられ天皇に奏上され、あげくは、西郷は征韓論者に仕立て上げられてしまったのである。

 

この画策をした中心人物は長州藩の伊藤博文であったとされる。(長州の私としては複雑である。)

西郷は、長州藩による明治政府から土佐、肥前勢力の排除という派閥争いに巻き込まれたというのが有力な説である。

 

結果的に大久保利通とは、ここで決別することになるが、大久保はまじめに西郷が行くと戦争になると思い込み、今の国力では、時期尚早である。と考え、決死の覚悟で西郷と対立した。

 

西郷の自決前(於:薩摩川内「戦国村」西郷記念展)

 

「晋どん、もう、このあたりで良かろう・・」

西郷は別府晋介に首をはねるように命じた。

 

西南戦争で薩摩軍は賊軍とされたが、決して天皇や国民を敵とするものではなかった。

その後、徴兵制により、兵隊に百姓や商人たちを中心に徴用したため、武士は職を失うことになった。

さらに廃刀令が追い打ちとなり、武士は大いに誇りを傷つけられて各地で反乱(佐賀の乱、秋月の乱など)が起こった。

そして、西郷と薩摩藩を恐れる政府の汚い行動に対し、薩摩藩士らが激怒、西郷を担ぎ出し、西南戦争が勃発するに至る。

 

薩摩軍は、田原坂の激戦で敗退し、西郷は敗走を続けるが、腹部に銃弾を受け、ついに城山にて自決する。

享年50歳

 

 

大久保は、自分が西郷と話し合えば分かり合えると言ったが、木戸孝允(長州)らの反対で実現しなかった。

 

大久保は、西郷の死後、西郷の功績を残すため書物を書こうとするが、会議へ出席する途上に暗殺されてしまう。

享年48歳

 

薩長同盟に応じ、江戸城無血開城を成し遂げた西郷である。

北越征討で見せた、庄内藩に対する寛大な対処や人柄をみても、西郷の朝鮮全権大使が実現していたら、間違いなく日朝同盟が成立していただろう。

その後のアジア情勢はどう変わったのか、想像すると残念でしかたがない。

 

ただ、西南戦争を経験したことにより、寄せ集めだった政府軍が強くなり、後の日清・日露戦争における日本の躍進につながったのは間違いないことである。

西郷は、下野しても西南戦争勃発まで間、陸軍大将の地位にあったことから、日本を強くするために西南戦争を戦ったというのは考え過ぎであろうか?

 

敬天愛人

 

道は天地自然の物にして、人は之を行ふものなれば、天を敬するを目的とす。

天は人も我も同一に愛したまふゆゑ、我を愛する心を以て人を愛する也。

 

 

南洲挽歌

ぬれぎぬを ほさんともせず 子供らの なすがままに 果てし君かな

勝 海舟

 

以下の資料を参考にしました。

KTS特別番組「南洲翁異聞」

鹿児島市観光課パンフレット「もっと知ろうよ維新のまち」

JR旅の情報「プリーズ」

他、「篤姫館「維新ふるさと館」「仙巌園」等各施設パンフレット

 

20.1.26及び20.2.10

 

おまけ 天文館 黒豚横町

 黒豚横町で黒豚を食べた。

天文館むじゃき

半額フェア

 黒豚かつ膳

1,418円→709円

本当に?

 

 

 

 

再び

天文館むじゃき

半額フェア

 

黒豚しゃぶしゃぶ

2,415円→1,208円

半額で妥当な値段のような気がする。 

 

 

 

 

 

 

 

戻る

 

 

 

 

byいとま放浪記