土蔵相模と梅屋敷跡

日本橋につぐ、宿場街「品川宿」

高級妓楼であった土蔵相模跡(コンビニになっているところ)

 

土蔵相模(どぞうさがみ)

 

 

晋作たち長州藩の志士が良く出入りしていたという土蔵相模(高級妓楼)

そこを見ておきたくて、先日の松陰めぐりの途中JR品川駅で下車し地図を頼りに歩くが、どうも地図が変である・・・

よく見ると、地図の起点としていた駅が品川駅ではなく、北品川駅と書いてあった(^^ゞ

変なのは自分であった(笑)

 

結構歩いて、道を訪ねながら、ようやくたどり着いた。

 

有名なイギリス公使館焼き討ちがあった御殿山も確かめたかったが、お腹もすいたし、松陰神社が優先だったので、早々に立ち去った。

蒲田梅屋敷跡

後日、品川、大田区に詳しいネットの友人(萩風さん)から、梅屋敷のことを聞いた。

話を聞いたときはピンとこなかったのだが、ドラマや小説などで出てくる梅屋敷事件で有名な場所であった。

出張中、土日無しの勤務だったので、15日(木)の26時間勤務明けで史跡巡りするしかなく、11時ごろ眠たい目を擦りながら、梅屋敷へと向かった。

梅屋敷事件

 

文久2年(1863)高杉晋作、志道聞多(しじもんた:井上馨)、品川弥二郎、赤祢丈人、山尾庸三ら11人は、横浜のイギリス公使が休日に横浜近郊の金沢で遊ぶという情報を入手し具体的な攘夷の手始めとして暗殺計画を立てた。

 

だが、「一人を斬る」ことに反対した久坂玄瑞が土佐の武市半平太に相談したため、それが土佐前藩主山内容堂に知られ、長州藩世子毛利定広の知るところとなった。

 

世子は、11人をここ梅屋敷に呼び、「将来自分が藩主になったときには、自分は非才だから優れた家来に助けてもらわないと事はならない。どうか無茶はやめて欲しい。」といった旨のことを述べて説得した。

一同みな、恐縮して謝罪したが、高杉だけは、この挙の意義を必死で訴えたという。

 

酔っ払いの周布政之助(すふまさのすけ)

 

その後梅屋敷では酒宴となったが、ことの詳細を聞いた長州藩の周布政之助が酔っ払って馬で駆けつけ、容堂の命で梅屋敷の警護をしていた土佐藩士たちに向かい「容堂公は尊王攘夷をちゃらかしなさる」と容堂の日頃からの曖昧な態度を皮肉り、暴言を吐いてしまう。

周布はその場で激昂した土佐藩士から斬り殺されるところであったが、晋作が機転を利かせて、刀を抜き、周布を斬るマネをして馬の尻を叩き逃走させた。

話の顛末を聞いた山内容堂公の怒りはお収まらなくなったが、松平春嶽などの仲介があり、周布は、なんとか命を助けられることになった。

 

品川から京浜急行線に乗り換えて「梅屋敷」で下車、国道沿いに南に下ると右手に梅屋敷跡が見える。

 

 

明治天皇は、この梅屋敷を気に入り9度も行幸されているそうだ。

 

 

 

 

しかし、晋作たちはその年の12月12日、品川御殿山に建設中のイギリス公使館の焼き討ちを実行する。

桜の名所である御殿山を取り上げられた江戸の市民たちは、この焼き討ちに大喝采だったという。

梅屋敷跡の梅

幕府は、幕府自身に火の粉がかかるおそれがあり、犯人を深く追求しなかったらしい。

池上本門寺

 

 

西郷隆盛と勝海舟の会見が行われた場所があるという情報と梅園がキレイだということで川沿いを2キロほど歩いて池上本門寺に向かった。

仁王門(左右に仁王様が立ちはだかる。)

五重塔

お腹が空き過ぎていたので、本門寺そば(大盛り)を注文した。

具沢山で美味しかった。

 

池上梅園

 

まずは、梅が気になったので梅園に行った。

まだ、満開ではないようだが、相当の梅が咲き誇っていた。

梅を見すぎる

 

じっくり、梅を見物したあと、総合案内書で、西郷と勝の会見場所について訪ねたところ、本殿の奥にあるそうであるが、既に夕方4時を回り、入ることができなくなっていた。

 

先に、会見場所に行けば良かった。(T_T)

 

江戸城無血開城に向けての西郷と勝の会見は最終的には、薩摩藩邸(現都営浅草線三田駅付近)で行われ、教科書にも載っており有名であるが、ここは何度も会見してたうちのひとつということである。

見ることはできなかったが、会見の場所といっても、表記があるだけで、その痕跡はなにもないらしい。

 

以下余談

江戸城無血開城に向けた会見は非常に重要な歴史のひとコマであるが、長州や日本にとっては、西郷と勝が元治元年9月に大阪で行なった初めての会見の方が意義が大きい。

 

勝は、西郷に対し、幕府の腐りきった現状を述べ、もはや回復不可能な組織であることを熱弁する。
「幕府は倒れぬもの、倒してはならぬもの」と思っていた西郷は、まさか幕臣の口から倒幕論が出るとは思わず驚愕しつつ、勝に大きく感化され、倒幕へと方針を固めていくのである。

そのことは、第一次長州征伐で恭順する長州藩を救うことにもなったのである。

それというのも、長州藩降伏の為の責任者、使節が西郷隆盛だったからである。

 

2週間の出張は、あっという間に終わった。

せめて、土日一日でも史跡探訪したかったなぁ。

 

 

2012.3.15(木)

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byいとま放浪記