+ウルトラオフ会 最後まで見るとアンヌに会えます。 |
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地下鉄出口にある史跡案内 |
目黒の出張があり、休日を利用して吉田松陰の史跡めぐりをしてきた。
恵比寿駅を起点に、地下鉄日比谷線で松陰ゆかり地二ヶ所をまわることができた。 まずは、小伝場町駅下車 松陰が投獄され、処刑された江戸伝馬町処刑場跡に行った。 |
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延命地蔵菩薩像 受刑者が斬首された場所に建立されている。 |
獄中の松陰
「安政の大獄」に連座し、伝馬町獄に投獄された松陰に高杉晋作は差し入れや獄で快適に過ごすためのお金の工面をしながら、手紙のやりとりをする。 ※「地獄の沙汰も金次第」の獄とは、牢獄のこと 晋作と松陰との手紙のやりとりで、有名な死に関する問答がある。 松陰の答えは、「死して不朽の見込みあらば、いつでも死すべし、生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし」である。 この死生観が晋作たちを感化し、倒幕、明治維新へと導くことになる。
松陰は、外国船打ち払いを計画した梅田雲濱(うんぴん)の参考人程度の扱いで江戸に送られ、投獄されたもであり、当初は軽い罪で済むと思われていた。 ところが松陰は、評定所は自分の所信を述べることができるチャンスであるととらえていたので、そうはいかなくなったのである。 吟味役の幕府役人に対して説いて説いて説きまくれば、その思想を変えることができ、やがては幕府自体が尊王攘夷に変化する。そう考えたのである。
吟味役から「憂国の一念を聞かせてくれ。」という巧みな誘導にのせられ、老中の間部詮勝(まなべ あきかつ)暗殺について話してしまうのである。
松陰は、1859年(安政6年)10月27日この地で処刑された。
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十思公園 松陰終焉の地碑 刑場跡地の敷地内にある十思(じっし)公園には、松陰終焉の地碑や辞世の句の石碑がある。 当初十思小学校の校庭にあったものがGHQにより、移設された。(日本の軍国主義の象徴とされたのだ(怒)) |
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小塚原回向院(こづかっぱらえこういん) さらに日比谷線を北上し、南千住で下車すると小塚原回向院がある。 ここは小塚原刑場跡地に建立されており、罪人の埋葬地でもあった。 また、「解体新書」で有名な杉田玄白、前野良沢らが、刑死者の腑分けを行なった場所でもある。 しかし、ここの埋葬は、遺体にそのまま土を被せる程度のひどいもので、野犬に食い散らかされるという状況であった。 そのため、桂小五郎(木戸孝允)や伊藤俊輔(博文)らが松陰の遺体を密かに引き取り丁重に埋葬している。 また、松陰を埋葬したその日、同時刻に村田蔵六(大村益次郎)が刑死した女囚の腑分けを行なっている。 小塚原での桂小五郎と村田蔵六の出会い(注:それ以前に会っていることを、桂は忘れていた。)それは、長州藩、さらに日本にとって運命的な出会いであったことも特筆すべき出来事である。 |
二十一回猛士墓
吉田松陰最初のお墓 |
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松陰二十一回猛士墓(久坂玄瑞の筆)と刻まれる。 (二十一回猛士:二十一回全力で事にあたる勇猛な士) 吉田を分解すると二十一回(十十一大きい口小さい口)になる。 |
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首切り地蔵 隣接する延命寺 1741年(寛保元年)に刑死者の菩提をとむらうため建てられた首切地蔵(高さ3m) |
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残念ながら、3.11東日本大震災で繋ぎ目がずれてしまい、危険であるため解体されていた。 |
現在、地蔵尊修復のための寄付が募られている。 |
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松陰神社
南千住から品川に行き、土蔵相模(次のレポで紹介する。)をウロウロして、三軒茶屋から松陰神社に行った。 |
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松陰の遺骨は、高杉晋作や伊藤俊輔ら松陰門下生により、小塚原からここ世田谷若林に改葬された。 しかし、禁門の変により、長州藩が朝敵となると、幕府により松陰の墓は破壊されてしまう。
明治になり、お墓は再建され、この地に松陰神社が建立された。
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松下村塾
萩の松陰神社にある松下村塾を模して作られている。 |
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松陰神社では、梅の花がきれいに咲いていた。 |
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「親思う 心にまさる親心 けふ のおとずれ 何ときくらん」(家族に宛てた【永訣書】より)
2012.3.3(土) |
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その夜は、アジアンタイペイにて、ウルトラオフ会
隊長の前では、みんな少年に戻る。 |
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今回もツーショット頂きました。 このあと2週間、心置きなく職務に専念できました。
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