道の駅 みとう

20数年ぶりの萩

 

永冨明郎さんの吉田松陰「留魂録」外伝 「遥かなり三宅島」出版セレモニーへのお誘いがあり、20数年ぶりに萩に行った。

せっかくなので、幕末長州の史跡を探訪することにした。

中国道美祢東JCTから小郡萩道路を北上して萩へ

「道の駅 みとう」で休憩し近辺の史跡を確認した。

訳:そこから届きますか?

壁のあちこちに山口の方言が貼られていて懐かしい。

 

大田絵堂の戦い

 

幕府に恭順し、実質的に滅亡の危機にある長州藩

その政権を奪い返すため、長府功山寺でわずか80人で兵を挙げた高杉晋作らに奇兵隊、御楯隊らの諸隊が次々に呼応し、萩に攻め上った。

 

この内乱の最大の激戦地となったのが、ここ大田絵堂である。

諸隊の本陣が置かれたという金麗社(きんれいしゃ)に向かう。

大仏様?

近傍の長登(ながのぼり)銅山で採取された銅は、あの奈良の大仏鋳造に使われたそうだ。

金麗社(きんれいしゃ)

 

「金麗社」諸隊の本陣が置かれた。

遊撃隊、八幡隊、御楯隊などの旗が逆になってる。(^^ゞ

ここで、山縣狂介(有朋)らが作戦会議を開き、髪を切って必勝を祈願したという。

 

金麗社の裏手には川が流れ、水面に桜が映りこんで見事であった。

山口県には特徴的な景色がある。

茶色い瓦屋根の家々と黄色いガードレールである。

 

呑水峠(のみずのたお)激戦地

この地で激戦が行われた後、高杉晋作、伊藤俊輔(博文)ら率いる遊撃隊も合流し、萩の政府軍を撃退し俗論派を一掃する。

政府の実権は正義派が握ることになり、一気に倒幕へと突き進んでいく。

大田絵堂戦跡記念碑

 

ここのすぐ先に天然記念物「長登(ながのぼり)の枝垂れ桜」があることを後から知った。

この時期なので、間違いなく見頃だったと思うと・・・痛恨である。

道の駅「萩往還」にある松陰記念館

道の駅 萩往還

 

 

少し北上すると、また、道の駅で休憩

ここには、無料の松陰の記念館がある。

遠くを指差す松陰の両脇に村塾の双璧 高杉晋作と久坂玄瑞

萩往還にある涙松の遺址

涙松(なみだまつ)

 

 

県道から外れた旧道の萩往還に涙松と呼ばれた場所がある。(道に迷った。)

ここは、萩を後にする時に城下が見える最後の場所であり、帰って来た時には最初に見ることができる場所なのである。

 

安政の大獄で梅田雲浜との関係を疑われた吉田松陰は、江戸に送られることになる。

護送の途中この場所で二度と帰ることはないと覚悟し次の歌を読んでいる。

「かえらじと思いさだめし旅なれば、一入(ひとしお)ぬるる涙松かな」

毛利輝元公(実質の初代長州藩主)の銅像

(輝元の子、秀就を初代長州藩主として数える。)

萩城趾

 

 

萩に到着後、まずは萩城跡(指月(しづき)公園)に行ってみた。

 

現在の山口県から岡山県まで120万石の所領を持っていた毛利は、関ヶ原の戦いの後、本拠地である広島の安芸を追われ、防長2州(周防、長門)36万石に押し込められる。

当初、瀬戸内海側の三田尻港のそばにある桑山に城を築こうとするが、許されず、不便な山陰側にあるここ指月山に築城させられた。

 

長州藩は、この後、徳川への恨みを抱き続け、250年間力を蓄えたのである。

それを裏付ける逸話に藩主と家老で次のような年始の挨拶をして、倒幕の確認が行われたという。

「殿、今年いたしましょうか?」 「まだ早かろう。」

 

さらに、家臣たちは、西枕で、足を江戸(東)に向けて寝たそうである。

萩城は別名指月城と言われ、その跡地は、指月公園となっている。

 

公園は桜が満開でお花見で賑わっていた。

菊ヶ浜

指月公園を出て、隣接する菊ヶ浜へ

 

この海岸を晋作たち長州の志士が走り回っていたのだ。

高杉晋作誕生地

高杉晋作誕生地

 

 

車を駐車場に停めて、萩城下の菊屋横丁を散策

 

高杉晋作は、この地で家禄二百石の高杉小忠太の長男として生まれた。

 

高杉晋作

 

吉田松陰の教えである草莽崛起から奇兵隊を創設した。

第一次長州征伐後は、クーデターを起こし、幕府に恭順する俗論派の勢力を倒し、倒幕に向けて藩を統一した。

四境戦争(第二次長州征伐)では、長州を包囲する幕府軍を撃破し、幕府崩壊の足がかりを築いた。

坂本龍馬に贈ったピストルの模型

(上海土産)

高杉晋作立志像

誕生地の近くにある公園に建てられている。

20歳ぐらいをイメージした銅像で男前に作られている。

 

この日の散策はここまでにしてメインの永冨さんの出版セレモニーの準備のため、東萩駅にあるホテルに移動した。

 

永冨さんの出版セレモニー

 

永冨さんと

 

セレモニーから二次会まで参加して、緊張しながらも、永冨さんに色々と質問をした。

無躾な質問に丁寧に答えて頂いた。

 

会場には、前山口県知事の二井さんご夫妻も来られていて、長州男さんに紹介していただき一緒に記念撮影をして頂いた。

二井前山口県知事ご夫妻と

 

今回のセレモニーに誘ってくれた長州男さんから頂いた永冨さんの書籍にご本人のサインも頂いた。

 

 

 

松陰神社

翌日、チェックアウト後もホテルの駐車場に車を留めたままでいいというので、貸自転車で萩市内を探訪した。

松陰神社 御本殿

明治維新胎動之地の石碑

松下村塾

明治を作った松陰の門下生たちの肖像が並ぶ

黒船密航と言う国禁を犯した罪で投獄されていた松陰は、江戸から萩に送り返され野山獄で禁固となった後、実家の杉家で蟄居となる。

 

その時に、玉木文之進〜久保五郎左衛門から引き継ぎ松下村塾を開く。

ここで、明治維新の原動力となる多くの門下生が育つことになる。

「親思う こころに勝る親ごころ けふの音づれ 何ときくらん」

家族に宛てた永訣書より

11歳で藩主毛利慶親(元親)の前で孫子の兵学を講義する松陰(大次郎)

吉田松陰歴史館

 

 

松陰神社の施設内にある松陰歴史館では、松陰の一生がダイジェストで見ることができる。

 

歴史的ワンシーンの数々が蝋人形でわかりやすく再現されている。

 

撮影自由だったので、沢山撮ったが割愛する。

 

 

松陰神社を出て周辺を散策

伊藤博文の旧宅

 

近くには、伊藤博文の大きな銅像があり資料館になっている別邸がある。

松下村塾発祥の地

玉木文之進の旧宅

 

最初の松下村塾である。

 

ここで松陰は叔父である玉木文之進から、厳しく武士の精神について教育を受ける。

 

吉田松陰誕生地と墓所

松陰誕生地を目指して坂を登る。

自転車ではちょっと辛い

団子岩と呼ばれる山の上からの眺望

桜が綺麗である。

右手には高杉晋作草庵跡顕彰碑

ここで10年の暇乞いをした晋作が、頭を丸めて東行と名乗り、隠棲した場所である。

ここで二ヶ月の松陰の遺稿を読みながら過ごした後、藩主に呼び出され、奇兵隊を創設することになる。

二十一回猛士(吉田松陰)墓

二十一回猛士墓

 

 

小高い山には松陰二十一回猛士墓がある。

 

吉田の文字を分解すると吉が十一と小さい口、田は十と大きい口からなっており、それを組み合わせると二十一回となる。

また、杉家の杉も十八三に分解され、足すと二十一になる。

猛士とは、信じることを貫くという意味で、松陰は一生の内に二十一回猛を発することを信念としていた。

 

「至誠にして動かざるは未だこれ有らざるなり」孟子の一節

松陰は、至誠を貫き通してこの世を去った。

 

 

 

 

東京での松陰の史跡廻りは、こちら

松陰廻り

東行暢夫(高杉晋作)之墓

門下生たちの墓

 

 

松陰の墓の隣には、高杉晋作や久坂玄瑞などの門下生のお墓も建っている。

 

晋作の遺骨は下関市吉田町の東行庵にあるが、ここには遺髪とへその緒が納められている。

 

自転車で走り回り、二日間の散策にちょっと疲れてきたが最後に岩倉獄と野山獄を見に行った。

 

岩倉獄と野山獄

岩倉獄(庶民の牢獄)

野山獄(武士階級の牢獄)

江戸小伝馬獄から萩に送り返された吉田松陰と金子重之助(しげのすけ)は、萩で投獄される。

 

武士である松陰は、独房で環境の良い野山獄に、重之助は劣悪な岩倉獄に投ぜられた。

 

小伝馬獄で既に体調を崩していた(腸結核にかかっていたと言われる。)重之助は、過酷な護送中に更に体調を崩し、この岩倉獄で絶命する。

 

重之助は、松陰と黒船に密航しアメリカに行くという夢を絶たれたことで、生きる気力を無くしていたのである。

 

松陰は、獄中から終始この重之助のことを気遣い、環境の改善を申し出たが、ついに叶えられることはなかった。

 

櫓べそを外された小舟でフンドシで縛り付けて櫓を漕ぎ、黒船に向かう松陰と重之助

於:松陰歴史館

吉田松陰と金子重之助の像 於:団子岩(吉田松陰誕生の地)

 

見逃したところがたくさんあった。

また、訪れよう。

 

参考文献             

武蔵野留魂記〜吉田松陰を紀行する〜永冨明郎著

高杉晋作を歩く  一坂太郎著             

萩観光パンフレット                    

 

2013.3.30(土)〜31(日)

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byいとま放浪記