北野天満宮、京都御苑、長州藩邸跡、祇園、池田屋、二条城、円山公園、霊山

〜長州藩関連の探訪〜

京都北野天満宮

1日目

 

GWに女房が、単身先に来たので、京都一泊二日の旅行をした。

 

朝、8時過ぎ愛知県(小牧)を出発

 

「あだしの念仏寺」というところが気になって仕方なかったのだが、女房は気持ち悪がるし、時間が押しているのでキャンセルした。

 

まずは北野天満宮へ

これで、念願の日本三天神を制覇した。

「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」菅原道真

 

政治的に京都から大宰府に左遷された菅原道真公を慕って、梅が飛んでいったという。

 

北野天満宮は、梅の花が咲く季節が特にきれいだそうである。

どこの天満宮もそうだと思う。(笑)

 

 

高杉晋作は、熱心な天神の信者で奇兵隊の守護旗には「菅原大神」と書いたものを用いている。

また、百花に先駆けて咲く梅の花をこよなく愛していた。

たわらや

一本うどん

たわらや

 

 

ネットの友人から、一本うどんのことを教えてもらった。

天満宮の駐車場のすぐ目の前にあった。

 

丁度、開店5分前だったので、すぐに店内に案内してもらった。

一本うどん

 

想像したより細い。

ショウガをといて頂く。

麺は、太すぎるので普通のうどんとはまったく味わいが違うが美味しかった。

ダシもとても美味しい。

※ 意見には個人差があります。(生さだ風)

かざりや あぶり餅

かざりや あぶり餅

 

続けて、食に走る。

北区紫野の今宮神社の前にある「かざりや」

 

ここは、ネット情報である。

 

 

 

きな粉をまぶして、備長炭であぶったお餅

白みそベースのたれをつけて頂く。

江戸時代(400年前)からあるという。

 

美味しい。

先を割った竹串にお餅が刺さっている。

今宮神社

ここで、行く予定ではなかったが、目の前にあるので今宮神社に参拝した。

 

これが余計なことであった!

 

この後、続けて神社だったため、女房に「神社ばっかり」と印象づけてしまったのだ!

上賀茂神社

上賀茂神社と下鴨神社

 

賀茂川沿いに二つの賀茂神社がある。

この賀茂神社は、幕末に攘夷祈願のために孝明天皇の行幸が行われたことで知られる。

 

その行幸にあわせ、将軍徳川家茂(和宮の夫)が天皇の護衛のために上洛させられた。

これは、長州藩の企てた策略であり、天皇の前で、できるはずのない攘夷を約束させ、できなかったときには、勅命に背く賊軍として倒幕しようというものであった。

 

一方、京都に上洛する将軍の警護を目的として、出羽庄内藩の郷士 清河八郎により、約200名浪士組が作られる。実は尊王攘夷だったために、浪士は分裂

そこから、後に攘夷派の志士を震撼させる人斬り集団、新選組が誕生することになる。

この賀茂行幸に際し、将軍家茂は家光以来、実に200年ぶりに上洛した。

賀茂川

いよ!征夷大将軍!!

 

賀茂川沿いに南下し、下鴨神社に向かう。

 

賀茂行幸の際に沿道にいた高杉晋作が、徳川家茂に対し、「いよ、征夷大将軍!」と声を掛けたというのである。

 

あまりにも恐れ多く、周囲の同士たち(山縣有朋ら)もドン引きだったという。

天皇の行幸であるため、幕府側は、行列を乱すことができず、この無礼な行為に対応できなかった無念さを江戸まで手紙に書き送ったそうである。

当時、志士たちの間では、「将軍」と呼び捨てにするほど、その権威は落ちていたのも事実である。

 

晋作が、天皇の行幸であることを見越しての暴挙か、冷やかして言ったのか、あるいは、感動して言ったのか真意は不明であるが、やりかねないと思う。(笑)

下鴨神社

さざれ石

神社ばっかり!!

 

 

歴史の話しなどに関心はなく、女房は不機嫌になる。

上賀茂神社までは一緒に参拝したのだが、ここでは「駐車場の車の中で休む」と言い出した。

 

まだ、たいして歩いていないのだが、ここ最近、原因不明のかかと痛と外反母趾があるのだ。

しかも、神社ばかりでうんざりしている。

 

困ったことになってきた。(^_^;)

 

とりあえず、1人で参拝した。(笑)

 

下鴨神社の境内までの参道にさざれ石が祀ってあった。

 

君が代に出てくるさざれ石である。

君が代斉唱!

申餅

帰りに、申餅(さるもち)というのが気になったので、買ってみた。

 

一つをその場で食べて、残りを包んで女房のお土産に持って帰った。(機嫌をとるため)

 

大粒の小豆がそのままゴロゴロと入っていて、美味しかった。

中を割って見せたいところである。

京都御苑

京都御苑と相国寺(しょうこくじ)

 

宿泊するホテルから歩いて京都御苑に行く予定だったが、女房の様子から無理と判断する。

 

苑内の駐車場に止めて、散策することにした。

 

京都御苑の北側にある相国寺に禁門の変で戦死した、長州藩士のお墓があるということを女房に説明したが、「またお墓!?」と渋る。

これは、下関で東行庵や功山寺などの墓巡りにつき合わされたことを根に持っているのである。(^_^;)

 

また、1人で行くことになった。

相国寺

 

京都御苑の北側の今井出川御門を抜け信号を渡ると、相国寺である。

 

長州藩士の墓地を探すが、広くて、道に迷う。

入り口に戻ると案内板があった・・・・

【禁門の変長州藩殉難者墓所】

 

禁門の変(蛤御門はまぐりごもんの変)

 

長州藩は、文久3年8月18日の政変(禁門の政変)で薩摩、会津の謀略により、京都御所警護の任務を解かれ、三条実美ら過激公卿7人とともに長州へ追放された。

賀茂行幸に成功した長州藩は、調子にのり、次に過激公卿らと大和行幸を計画し、そこで「攘夷戦争をする会議を開く」という勅命を孝明天皇が知らないところで発し(偽勅)天皇の怒りをかうことになる。

そこを薩摩、会津や公武合体派の公卿らに付け入られたのである。

 

その後、京都での失地回復の嘆願を繰り返すが受け入れらず、翌年、ついに武力を持って上京し、京都御所を警護する薩摩、会津を主力とする幕府軍と激しい戦いとなった。

これを禁門の変という。

 

【長藩士戦亡霊塔】

この戦いにより、約200名の長州藩士が戦死し、氏名のわからない20数名の藩士がこの地に葬られているそうである。

出水の小川

京都御苑を散策

 

その後、機嫌の直った、女房といっしょに京都御苑を散策した。

 

女房は、待っている間に事務所に行き、「京都御所を見学したい。」と訪ねたところ、事前に許可が必要で、1週間ぐらいかかると言われたそうだ。

 

予定はしていなかったのだが、どうせなら予約しておけば良かった。

御苑の南側にある堺町御門(久坂玄瑞の隊がここから乱入した。)

南側にある堺町御門

その目の前に鷹司(たかつかさ)邸跡がある。

 

ここは、禁門の変で久坂玄瑞(くさかげんずい)が最後の嘆願のため、鷹司卿に取り次ぎを頼んだ場所である。

 

しかし、既に長州藩は朝敵となっており、相手にされず玄瑞は、火の海となった鷹司邸内で寺島忠三郎と自刃する。

 

久坂玄瑞

高杉晋作と松陰門下生の双璧といわれた秀才で、尊王攘夷の先鋒である。

長州藩は、「航海遠略策」を唱える長井雅楽(うた)が幕府からも認められ、公武合体開国派であったが、玄瑞は桂小五郎らとともに長井を失脚させ、藩論を破約攘夷へと大転換させた。

また、下関での攘夷(外国商船、軍艦への砲撃)を率先して実施したのも久坂玄瑞である。

無謀と思われる攘夷

しかし、この長州を筆頭とする攘夷の爆発的エネルギーがなければ、倒幕も明治維新も成し得なかったであろう。

 

鷹司邸跡地 久坂玄瑞自刃の場所  享年25歳

蛤御門

これを見るために京都御苑に来たのだが、駐車場の近くだったので最後にじっくり見た。

今も当時の弾痕が残る。

女房はTVドラマ「JIN〜仁〜」を見ていたので、それをもとにして、蛤御門の変や久坂玄瑞、来島又兵衛(きじままたべえ)などの説明をした。

 

来島又兵衛

8月18日の政変で、三条実美ら7卿とともに雨の中を長州へと引き上げた。

その時の悔しさをもっとも身に染みて感じていたのが、来島又兵衛である。

武力を持って上京し、失地回復するという進発論を唱え遊撃軍を率いて上京した。

【来島又兵衛が戦死したと思われる場所】

入京した長州軍は、伏見、嵯峨天龍寺、山崎天王山の陣地にて京都を取り囲んだ状態で、しばらく嘆願を続けたため、薩摩、会津軍はその間に万全の態勢を整える。

朝敵となることを恐れる、久坂玄瑞、寺島忠三郎、入江九一ら若い者から自重論が出る中、来島又兵衛が一喝、怒号を発し、京都に討ち入り天皇を擁することとなった。

 

遊撃軍は、蛤御門近辺で会津軍と戦い、一時優勢となるが、腹背から西郷隆盛率いる薩摩軍の攻撃を受けて敗走した。

来島又兵衛は、蛤御門からまっすぐ入ったこのあたりで、薩摩兵(川路利良としなが:後の初代大警視)に撃たれて落馬、槍を逆手に持ち、喉を突いて自刃した。

享年49歳

ここでの戦闘が一番激しかったため、禁門の変は別名蛤御門の変と呼ばれている。

3時を過ぎたので、ハートンホテル京都にチェックインした。

ホテルから二条城や長州藩邸跡、祇園、池田屋などがとても近い

長州藩邸の跡地に京都市役所とホテルオークラが建つ

夕食前に、周辺を散策した。

 

【長州屋敷址】

長州藩邸は、広大な敷地にあったが、禁門の変で焼失した。

 

【ホテルオークラにある桂小五郎(木戸孝允)の像】

薩摩藩の西郷隆盛、大久保利通と並び維新の三傑と称される。

神道無念流の免許皆伝で、練兵館の塾頭、剣の達人である。

新選組の近藤勇もその剣の腕を恐れたと言われるが、坂本龍馬と同じく生涯人を斬ったことが無いという。

また、逃げの小五郎と呼ばれ、禁門の変の時は、長州藩邸に居て、敗戦とみるや自ら藩邸に火を放って逃走した。

 

【大村益次郎、佐久間象山遭難の碑】

ホテルオークラの裏側を流れる高瀬川沿いにある。

森鴎外の小説「高瀬舟」でも有名な川である。

料亭「幾松」

振り返ると料亭「幾松」がある。

 

ここは、木戸孝允(桂小五郎)と松子夫人(幾松)が居住した場所であり、松子は晩年、翠香院(すいこういん)と号し、二人の思い出のあるこの地で過ごしている。

 

桂小五郎の恋人であった芸妓幾松は、池田屋事件や禁門の変の後、新選組などから命を狙われる危険な時期に桂を助けている。

乞食の姿で潜伏する桂に、にぎりめしを差し入れたという逸話もある。

 

桂は、但馬(現在の兵庫県の北部)にまで逃走し、商人として潜伏していた。

坂本龍馬、中岡慎太郎遭難の地

 

坂本龍馬、中岡慎太郎遭難の地

 

 

 

ほとんど迷わず、偶然というか、スポットを的確に歩き回り、坂本龍馬、中岡慎太郎遭難の地にも到着した。

 

龍馬と中岡が暗殺された近江屋のあった場所である。

 

女房は、福山雅治ファンで、NHK大河ドラマ「龍馬伝」を欠かさず、見ていたのでここはうれしそうであった。

賀茂川にかかる四条大橋を渡り、祇園へ向かう 川沿いにカップルが多い

祇 園

新橋通周辺

高杉晋作なじみの芸妓がいた店 井筒屋跡(現:祇園辰巳ネクサス)

文久2年、開国から攘夷へと大転換した長州藩は、孝明天皇が外国を忌み嫌い、開国に反対だったことから、過激公卿らと結託し京都の町を舞台に尊王攘夷の先鋒となって活動した。

 

連日、藩のお金を湯水のごとく使い、謀議がてら飲み明かす長州藩士たちは、京都の街で大人気だったらしい。

 

高杉晋作がひいきにしていた芸妓小梨花がいたという井筒屋跡を発見した。

 

その隣にある甘味どころ ぎおん小森というお店で休憩した。

女房は、抹茶プリンパフェで私は抹茶とお菓子を注文したプチ贅沢である。

甘味どころ ぎおん小森

お店を出ると、行列ができていた。

人力車が通る。

舞妓さんの姿もチラリと見えた。

舞妓体験というお店があるようだ。

 

高杉晋作は、京都で起こった大きな事件には直接関わっていない。

 

8月18日の政変の時には、尊王攘夷に浮かれる志士たちの言動に嫌気がさし、頭を丸めて東行と称し、萩に帰って隠棲し読書生活、その後藩の政務役になり、奇兵隊の創設などに奔走していた。

 

池田屋事件と禁門の変の時には、三田尻で進発の準備をする来島又兵衛の説得の任務を与えられたが、失敗し、(参照:故郷探訪 防府三田尻)そのまま無許可で上京したため、脱藩罪となり野山獄へ投獄されていた。

 

そのおかげで、晋作は命を落とさずにすみ、藩を武装強化し、四境戦争(第2次長州征伐)で幕府軍を撃破するに至ったわけである。

海鮮茶屋池田屋はなの舞

【池田屋騒動之址】

池田屋の跡地にその名も池田屋という居酒屋ができている。

7時から9時まで、インターネットで事前に予約しておいた。

メニューに毛利の家紋と新選組

メニューの表

長州藩(毛利)の大きな家紋に新選組隊士たち?

ちょっと妙な感じがする。(笑)

 

池田屋事件

 

長州藩は8月18日の政変以降も、京都を拠点に密かに活動していた。

新選組は、長州藩が隠し持っていた武器弾薬を発見し、「強風の日に京都御所を放火し、その混乱に乗じて将軍後見職の一橋慶喜、会津藩主 松平容保(かたもり)を暗殺し孝明天皇を長州へお連れする。」というとてつもない計画を企てているという情報をつかみ、その会合場所を近藤隊、土方隊の二手に分かれて捜索する。

池田屋を突きとめた近藤勇、沖田総司ら7人が斬り込みをかけ、その後土方隊の応援が到着し、多くの勤王の志士を殺害、捕縛した。

 

この事件で松陰門下生の四天王の1人吉田稔麿(としまろ)ら多くの長州藩士や肥後の宮部鼎蔵(ていぞう)らが死亡した。

 

この時、桂小五郎は、難を逃れているが、この場に居合わせていたら、新選組側にも多くの犠牲者がでていたのかもしれない。(桂の実戦の腕はどうだったのだろう?)

 

この事件で激昂した長州藩は、進発論が加速し禁門の変に至ることになる。

 

※ この池田屋事件の斬り込みの理由は、幕府側の資料にだけしかなく、ねつ造説がある。

以下注文したもの

生ビール大にお通し

三条寄せ豆腐

はなの舞サラダ(わさび風味のドレッシング)

お刺身盛り合わせ

予約した二人部屋はこんな感じである。

女房は、韃靼そば茶のソフトドリンクを飲んでいたのだが、2杯目はアルコール入りが来た。

店員は、平謝りで、2杯目はサービスとなった。

馬刺

ズワイガニの天ぷら

軍鶏(しゃも)鍋

生麩の炙り

鮭チャーハン

お腹いっぱいになった。

(ネットクーポンで1割引なので、お忘れなく。)

ロビーにはいろんな展示品がある。

奥:沖田総司の愛刀 加州清光         

手前:土方歳三の愛刀 印伝革巻和泉守兼定

 

2日目

二条城(右本丸、左二の丸御殿)

8時45分の開城にあわせてホテルから歩いて二条城に行った。

人気スポットのようで朝から行列ができていた。

 

お城というより、将軍が上洛したときの住居として家康の時代に作られ、家光が庭園などを整備したもので、先に説明した賀茂行幸の時に200年ぶりに家茂が入城している。

 

メインは、なんと言っても慶喜が在京40藩の代表を集めて大政奉還の諮問をし、その後発表を行った大広間である。

 

残念ながら撮影禁止である。

興味ある人は、是非、生で見てください。

二条城の唐門 荘厳である。

二条城のお堀

円山公園(まるやまこうえん)

ホテルに戻り、チェックアウト

車で円山公園に行った。

広い公園の中を探すものは・・・

【坂本龍馬と中岡慎太郎の像】

薩長同盟というと龍馬の活躍が目立つが、中岡慎太郎と二人で成し遂げたものである。

中岡は、土佐勤王党の弾圧の時に脱藩し、長州の三田尻に身を寄せ(参照:故郷探訪 防府三田尻)、三条実美ら7卿の警護をしたり、禁門の変や高杉晋作の藩内クーデーターにも参加しており、長州藩からの信頼が厚かった。

西郷隆盛ともつながりを深めて、西郷と桂の会談をお膳立てする。(この時は実現せず、西郷が下関を通り過ぎ京都に行ってしまう。)

薩長同盟の立役者の二人、明治維新を促進させた、功労者たちである。

維新の道

京都霊前護国神社

 

 

 

最後は、京都霊山(りょうぜん)護国神社に行った。

 

駐車場まで大渋滞であった。

ようやく駐車した時には、12時を過ぎていた。

維新の道を上り、護国神社へ

 

まずは、お墓参り

 

ここは、龍馬の墓もあるということで、女房も一緒である。

 

 

坂本龍馬と中岡慎太郎の墓

長州藩士の墓

久坂玄瑞、来島又兵衛、寺島忠三郎、入江九一など禁門の変で亡くなった志士たちの中に、なぜか高杉晋作の墓もある。

しかも、明らかに新しい(人気にあやかったものらしい。)

木戸孝允のお墓 さすが、維新の三傑立派である。

この隣には松子夫人のお墓もある。

龍馬に助けられた京都観光であった。

 

幕末維新ミュージアム霊山歴史館

 

その後、幕末維新ミュージアム霊山歴史館を2時間ほどじっくり見学した。

3Dによる再現映像で池田屋事件や、近江屋で龍馬が暗殺されるリアルな様子をしっかり見てきた。

 

また、龍馬の精巧な蝋人形があり、すごくリアルで、龍馬が話しかけて来そうだった。

 

今更だが、最初にここで幕末維新の勉強をしてから、観光して回るほうが、楽しかったかもしれない(笑)

 

3時過ぎには京都を後にしたのだが、帰路は高速に乗る前から大渋滞、小牧に到着したのは9時過ぎであった。

 

 

 

 

 

 

2011.5.2、3

最後までご覧頂きありがとうございます。

 

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byいとま放浪記