防府天満宮の表参道 |
2011年元旦 防府天満宮に初詣に行った。
今回の帰省では、高杉晋作と縁のある勤王の歌人野村望東尼(ぼうとうに)を探訪するのが目的のひとつでもある。
実家から一本道で1kmも歩くと防府天満宮に到着する。 |
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大専坊跡 |
大専坊跡
商店街を抜け、天満宮の表参道、長い石段を上がっていくと左手に「大専坊跡」がある。
ここは、毛利元就が大内氏を攻め、防長を平定する際に参謀本部として使われたものだそうだ。
また、幕末には、諸隊「遊撃隊」の屯所として使われ、高杉晋作は、進発論(兵を用いて上京し、失地回復の嘆願に行く)を唱える来島又兵衛(きじままたべえ)の説得にあたったが、挫折している。
晋作は、そのまま無許可で上京し、脱藩の罪で萩の野山獄に投獄される。
◎大専坊跡の中を見学しました。 |
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防府天満宮 |
防府天満宮
防府天満宮は、菅原道真を祀る学問の神様であり、京都の北野天満宮、福岡の太宰府天満宮と並び日本三天神と称されている。 また、日本でもっとも古い天満宮でもある。
菅原道真は、大宰府に左遷される際、ここ三田尻(みたじり)港から福岡に出港予定であったが、時化のため数日をこの地で過ごした。 ※ ここ三田尻を出港すれば、九州の地、道真公は、「お咎めなし」と都から呼び戻す使者が来るのではと最後の望みを胸に数日を過ごしたらしい。
幕末の頃は、ここ防府天満宮は、地名から「松崎天満宮」あるいは「宮市天満宮」と呼ばれており、熱心な天神の信者である高杉晋作も、もちろん参拝している。 |
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野村望東尼と天満宮 望東尼の胸像と「面白きこともなき世を(に)おもしろく【東行】 すみなすものはこころなりけり【望東尼】」の石碑
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薩長倒幕軍を見送るため三田尻へ
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桑山(くわのやま)近辺 三田尻で亡くなった野村望東尼の墓を訪ねた。
驚いたことに、私の母校(桑山中学校)への通学路であった。 灯台もと暗しとはまさにこのことである。
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終焉の宅祈念碑 |
望東尼終焉の宅
防府高校の南西に野村望東尼終焉の宅記念碑がある。
丁度その向かい側に大正時代に移設された望東尼の終焉の宅がある。 |
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野村望東尼終焉の室(岡村町) |
石碑が建っており、「史跡 野村望東尼終焉の室」と彫られている。
終焉の地(実際に亡くなった場所)は、三田尻本町であり(後で紹介する。)、ここは、そこから移設された、望東尼の部屋(離れ)があるということである。
細部は、今回参考にさせていただいたHPをご覧ください。 |
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大楽寺に向かう山道(いとまの通学路) 大楽寺 |
大楽寺
終焉の宅から少し上るとお地蔵さんがたくさん並ぶ道があり、入り口の大楽寺の案内板には、望東尼の香華所とある。
大楽寺には望東尼の位牌があり、「防府望東尼会」の主催で毎年供養が行われているそうである。
大楽寺には、夏目雅子さんのお墓があることは、以前テンの犬バカレポ「テンと桑山からの眺望」で紹介した。
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晩年明治31年に三田尻に屋敷を設ける。 今は、ほとんどが、PL教会の敷地となっている。 |
楫取素彦
ここで、脱線し、ある人物を紹介する。
野村望東尼が高杉晋作の死後、山口と防府で過ごした際に、並々ならぬ配慮をした人物がいる。 楫取素彦(かとりもとひこ)男爵である。
楫取は、山口では、望東尼を楫取邸に住まわせており、薩長連合倒幕軍の情報を望東尼に教えている。 望東尼を防府の地に導いたのも楫取である。
楫取男爵は、吉田松陰と信頼しあう仲であり、松陰の2番目の妹「寿子」と結婚、死別後は松陰の母「滝」の強い勧めにより、4番目の妹「文」(禁門の変で戦死した「久坂玄瑞」の未亡人でもある。)と再婚している。 つまり吉田松陰の義弟である。
また、初代の三田尻宰判管事(市長)も務めており、明治9年には、初代群馬県令(県知事)となり群馬県の発展の礎を築いた功労者である。
※久坂玄瑞は、松下村塾では高杉晋作と共に「村塾の双璧」と呼ばれた人物である。
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今も残る楫取男爵の屋敷の一部(当時のままの部分も多いと思う) |
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楫取家と楫取素彦の墓は、大楽寺の旧墓地(夏目雅子さんのお墓とは違う場所)にある。 非常に慎ましやかなお墓である。
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野村望東尼終焉の地、お墓の案内板 |
望東尼の墓
山道を抜けて交差点を桑山中学校のある方角に右折すると「野村望東尼の墓」という案内板があり、階段を上り200mも行くと野村望東尼の墓がある。
案内板には、望東尼が防府天満宮に七日間奉納した七首の句の表記があった。 |
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野村望東尼の墓 明治26年望東尼に正五位が追贈されると、楫取が中心となり顕彰碑を兼ねたお墓を建直した。 裏面には自らの撰文が刻まれる。
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防府護国神社 |
防府市護国神社と桑山招魂場
防府護国神社は、日清、日露、大東亜戦争における郷土出身者の御霊が祀られている。
幕末、ここ一帯は、諸隊である御楯隊(みたてたい)の調練場として整地された場所であり、その後、戦死した隊士を祀る桑山招魂場となった。
周辺の公園は、桜の名所でもある。 |
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招魂碑 陸軍中将 山田顕義の撰文が刻まれる。
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御盾隊隊士の慰霊標 |
招魂場は、護国神社の右手の小高い丘にある。 草や笹が生い茂り、道に迷いそうであった。
大きな招魂碑があり、一角には、戊辰戦争において戦死した、御楯隊「みたてたい」隊士の慰霊標が建ち並ぶ。 |
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桑山山頂に登り、三田尻港を臨む 左手は江泊山と竜ヶ崎、右手は向島
桑山からの眺望は、これまた以前テンの犬バカレポ「テンと桑山からの眺望」で紹介した。 |
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三田尻 以下蛇足ながら、三田尻近郊の史跡を紹介する。 |
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当時の道しるべが残る 右 かみがた 左 なかのせき 墓参りの際にいつもこの交差点を右折しているのだが、全く認識がなかった。 |
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望東尼終焉の地 |
望東尼終焉の地
道しるべを天満宮側から左折するとすぐ近くに野村望東尼終焉の地がある。
ここが、終焉の地であり、先に紹介した終焉宅は、後に建物を移設した場所である。
望東尼が亡くなったのは、ここ三田尻本町の荒瀬百合子宅である。 |
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正福寺 ここは、望東尼終焉の地近傍にあり、望東尼を弔ったお寺である。 また、結成間もない頃の奇兵隊の本陣でもあった。 |
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三田尻御茶屋(英雲荘)旧構内
毛利藩の公館として、参勤交代や領内の巡視の際に宿泊施設として利用されたものである。
幕末には、文久三年(1663)八月、都から落ちた三条実臣ら7卿が勤王の志士を交えて国事を語り合った場所でもある。
敷地内には、長州藩を頼ってきた多くの脱藩浪士が起居した招賢閣もあった。 その中には、松陰の友人でもある肥後の宮部鼎蔵(ていぞう)や土佐の中岡慎太郎などもいた。
◎ 建物の改修が行われ2012年から一般公開中 英雲荘と毛利邸(2013.8) |
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萩往還 |
萩往還
市内のあちこちにこの萩往還の石碑が建っている。 萩往還とは、ここ三田尻の軍港と萩を結ぶ街道であり、参勤交代のために整備されたものである。 |
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三田尻御船倉跡 |
三田尻御船倉跡(おふなぐらあと)
萩往還の終点地である三田尻御船倉は、三田尻御茶屋から500mに位置し、参勤交代の際には、ここから出港した。
幕末では、多くの志士がここから京に上り、来島又兵衛らもここから上京し禁門の変を起こした。
三田尻港は今は埋め立てられて、協和発酵などの工場となっている。
ここ三田尻御船倉跡の外周水路は、その頃の面影が唯一残る場所である。
※ 功山寺で挙兵した高杉晋作が、決死隊を編成し、軍艦三隻を奪取したのもここである。 |
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三田尻港
自分の育った防府の地に、こんなにも史跡があったことを今更ながら驚かされた故郷探訪であった。
最後までご覧いただき、ありがとうございます。 |
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山口のおみやげ
防府にお越しの際は、お土産に生外郎(なまういろう)がお勧め 防府の宮内庁御用達【白銀かまぼこ】もお勧めである。
2011.1.1
母校の校歌に!? なんと、校歌の3番に望東尼の名前が・・・・憶えてない。 ここは、「もとに」と歌うのだろうか? 1番にある来目の皇子(聖徳太子の弟)は認識していたが・・
桑山中学校のHPから転用しました。
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