高杉晋作の起こした奇跡のクーデター

功山寺決起(挙兵)、回天義挙ともいう。

 

まさに、天を回し、世の中を明治維新へと導いた!高杉晋作のこの行動力に見せられ、下関へ行った。

 

太宰府インターから小月インターまで走り、まずは高杉晋作のお墓がある東行庵に向う。

9時過ぎであるが、もう駐車場はいっぱい

かろうじて一台止められた。

 

晋作餅が、おいしそうである。

 

丁度紅葉のきれいな時期だった。

東行庵は、高杉晋作の菩提をとむらうために建てられた。

晋作の妾、おうのは、出家し梅処尼となり、東行庵の庵主として亡くなるまでここで晋作をとむらった。

高杉東行(晋作)の墓

高杉晋作のお墓は、晋作の遺言とされる、奇兵隊の本陣があった、ここ吉田に建てられた。

 

晋作は、下関戦争の際、下関の防備を任せられ、その時に奇兵隊を創設した。

 

奇兵隊は晋作が尊敬する吉田松陰の教え「草莽崛起」(そうもうくっき)を元に作られた身分にとらわれない志願兵による軍隊であり、明治の軍隊の始まりとも言うべき組織であった。

 

敷地内には奇兵隊士の墓地や奇兵隊を資金面で援助した回船問屋 白石正一郎の墓などもある。

白石正一郎は、高杉晋作に心頭し、奇兵隊の創設や維持に惜しげもなく資財を投じ、最後は破産している。

しかし、そのことを全く悔いることは無かったという。

おうのの墓

まさとおうの

 

 

晋作のお墓のすぐ側に、おうののお墓がある。

おうのは、下関で芸子の時、晋作に出会い、ぼんやりとした性格が晋作に気に入られ、身受けされた。

 

晋作は、留守宅を守る防長一の美女と言われた正妻のまさを愛していたが、このおうのにも癒された。

 

晋作は、下関を開港しようとしたため、狂信的攘夷派から命を狙われた際は、おうのを伴い、四国への逃避行をしている。

この妾のおうのを連れての逃避行の噂は、萩のまさの耳にも入った。

まさは、晋作の母と息子とともに、下関に一時期移り住み、晋作と暮らしている。

 

四境戦争が始まり、おうのは、結核の病を押して、下関で戦う晋作の看病をした。

 

正妻のまさも、晋作の病がひどくなった折りには、この地に赴き、最後を看取っている。

 

 

まさは、晋作の死後は、晋作からの頼みでもあり、高杉の家を守るため、生涯独身で東京で過ごした。

 

敷地内には、高杉晋作の銅像がそびえ立つ

焼きたての晋作餅は、とても美味しく、太宰府の梅が枝餅にも勝るとも劣らない味だった。

子供たちのおみやげに10個買って帰った。

シソの巻いたものと2種類ある。

晋作の湯

 

 

まだ、午前中であり、この後の予定を考えるとゆっくりと温泉につかる気にならずスルーした。

 

 

また、ゆっくり訪問したい。

功山寺

高杉晋作回天義挙の碑

 

死して不朽の見込みあらばいつでも死すべし

生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし

この吉田松陰の教えが、高杉晋作の信念となった。

 

功山寺もすでに大勢の人が詰めかけ、駐車場もいっぱいであったが、空いたスペースに止めることができた。

 

ここ功山寺は、8月18日の政変により、長州藩とともに京から追い出された尊皇攘夷の公家(七卿落ち)三条実美ら五卿が一時期滞在していたお寺でもある。

 

回天義挙

 

長州藩では、禁門の変で敗戦したため、正義派が失脚し、幕府に恭順の意を示す椋梨藤太(むくなしとうた)ら俗論派が藩政を握ることになり、俗論派による、正義派の粛正が始まった。

 

周布政之介(すふまさのすけ)を自害に追い込み、井上聞多(もんた)(馨)は襲われ瀕死の重傷を負うなど多くの尊皇攘夷思想の藩士が処刑された。

そして、奇兵隊諸隊も解散に追い込まれた。

 

高杉晋作は、福岡に亡命し、福岡諸藩の勤王党の力を借りて、俗論派の掃討を図ろうしたが、福岡諸藩も、長州藩に同調して佐幕化している状況であった。

倒幕の要が長州藩にあることを認識し、クーデターの必要性を確信する。

 

その後、平尾山荘に一時身を隠し、三家老の切腹や五卿を大宰府に移送する計画などを知ると、再び下関に戻り、奇兵隊らに決起を促した。

 

山縣狂介(有朋)らは、いったんは挙兵に反対するが伊藤俊輔(博文)、石川小五郎率いる力士隊、遊撃隊ら80名がここ功山寺に集まった。

晋作は、三条実美ら五卿に対し「これよりは、長州男児の肝っ玉をお目にかけ申す。」と挨拶をして、挙兵した。

 

下関新地会所を占拠し、晋作自ら18名の決死隊を組織し、防府市三田尻にて軍艦三隻を奪うなど、各所で勝利すると、山縣率いる奇兵隊諸隊らがこれに呼応し、萩へと攻め上った。

 

藩政府軍をを制圧し、俗論派を一掃し藩論は、再び倒幕(武備恭順)へと統一された。

 

功山寺のある長府は、今も城下町の風情を残す。

毛利邸や乃木神社もある。

唐戸市場

 

 

 

お昼ご飯は、唐戸市場で食べることにした。

駐車場まで渋滞ができて、なかなか入れなかった。

 

市場のあちこちで、美味しそうなお寿司や海鮮丼を求めるお客さんの行列ができていた。

うにいくら丼、ふくの唐揚げ、ふく汁

つき合わされて疲れている女房もこの笑顔である。

海峡ゆめタワー

海峡ゆめタワーに上り、関門海峡を一望してみることにした。

中央の彦島を連合軍が租借地として要求

彦島の租借を拒否

 

下関戦争(イギリス、フランス、オランダ、アメリカの4カ国)に激しく叩かれた長州藩は、その戦後の談判に高杉晋作を起用する。

 

@下関海峡の通航の自由

A石炭、食料、水など必要品の売り渡し

B悪天候時の下関上陸の許可

C下関砲台の撤去

D賠償金300万ドルの支払い

これら5条件をすべて受け入れて講和が成立した。

ただし、賠償金は幕府からとした。

(攘夷の命令を出したのは幕府だからという理屈)

そして、彦島の租借だけは断固として拒否した。

これは、晋作が上海の留学で植民地となった清の悲惨な実情を目の当たりにしたからに他ならなかった。

晋作・龍馬像「青春交響の塔」

関門海峡を臨むこの場所に高杉晋作と坂本龍馬のモニュメントが作られている。

左が晋作、右が龍馬

ここ関門海峡は、四境戦争(第2次長州征伐)の大海戦の舞台であり、高杉晋作は、海軍総督として「丙寅丸」(オテント丸)に乗り込み、幕府の艦隊と戦い、坂本龍馬の海援隊から援護もあり、これを撃退した。

 

このモニュメントには、二人の英雄のレリーフが埋め込まれている。

桜山神社

桜山神社は、高杉晋作が発議して作られた日本最初の招魂場とされる。

戦死した兵士をまつる招魂場の考えは靖国神社へと受け継がれていった。

396柱の志士の御霊が祀られている。

当初は下関戦争で戦死した奇兵隊の霊をとむらうためだったが、後の四境戦争、戊辰戦争の戦死者もとむらわれた。

また、尊皇攘夷運動に名を残す吉田松陰、高杉晋作、久坂玄瑞などもまつられている。

 

写真のように、奇兵隊と同じく身分の隔てなく、霊標が立ち並んでいる。

 

 

まだまだ、行っていないところがあるが、日も傾いて来たので、帰路についた。

日帰りでは、ちょっと忙しすぎた。

 

 

平尾山荘 野村望東尼に飛ぶ

 

 

2010.11.21

おまけ

三吉慎蔵の墓

寺田屋騒動で龍馬を救った、槍の名手

三吉慎蔵のお墓もあった。

於:功山寺

乃木神社

乃木神社は、全国に8カ所ある。

 

乃木希典と高杉晋作の接点

 

乃木は、18歳の時に四境戦争に参戦し、長府藩報国隊として小倉口で戦った。

この方面の総指揮官が高杉晋作であった。

晋作は、乃木の素質を見抜き大砲一門と部下数十人いる一指揮官に抜擢している。

 

乃木は、吉田松陰の師である玉木文之進(松下村塾を最初に開いた。)の薫陶を受け、その際、吉田松陰の教えを深く学び尊敬している。

なので、間接的ではあるが、晋作と同じく松陰の門下生と言っても良いかもしれない。

 

英雄乃木希典については、赤坂にある乃木神社のレポに詳しく書いてます。

 

 

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