平尾山荘〜野村望東尼(ぼうとうに、もとに)

平尾山荘:福岡市中央区平尾

福岡市の町中にある平尾山荘に地図を頼りに行った。

付近が公園になっていて、小さなパーキングもそばにあり、車を止めてゆっくり見学することができた。

 

平尾山荘は、長州の高杉晋作が身を隠したことで知られる。

 

禁門の変で敗退し、朝敵となった長州藩は、勤王攘夷派(正義派)が失脚し、椋梨藤太(むくなしとうた)ら保守佐幕派(俗論派)が実権を握った。

 

俗論派は、幕府の長州征討に屈し、恭順の意を示すため、禁門の変の責任を取らせるため、周布政之助ら正義派の粛正を始める。

 

高杉晋作は、この粛正から逃れ、福岡にて勤王党に俗論派打倒の周旋活動をするが、挫折し一時期この福岡の平尾山荘に身を隠したのである。

山荘公園の側 数台止められるパーキング

公園の中央に野村望東尼の胸像がある。

 

 

 

望東尼俗名モトは、女流歌人であり良妻賢母であった。

 

40歳で長男に家を譲り、夫と共にここ平尾山荘で生活を始めるが、夫や子供たちとことごとく死別し、54歳で招月望東禅尼となった。

 

その後、上京したときに、京都に集まる多くの諸国の志士を見聞し、安政の大獄などを目の当たりにしたことにより、勤王の尼となった。

 

平尾山荘は、今は町中であるが、当時は人里離れた丘であり、野村望東尼の住まいであるとともに、勤王の志士たちの秘密の集会場となっていた。

 

京都から薩摩に逃れた、勤王の僧、月照を匿ったり、中村円太、月形洗蔵ら勤王の志士との交流も多かった。

 

 

 

高杉晋作の滞在は、わずか10日余りであったが、望東尼(この年59歳)は、晋作を厚くもてなしたそうである。

 

長州藩では、俗論派による正義派の三家老や五参謀の処刑が行われ、それを知った晋作は、愕然とし、打倒俗論派を決意する。

 

望東尼は、晋作のために衣服を仕立て、それに二首を添えて送り出した。

 

下関に戻った晋作は、下関で挙兵し、藩政の実権を奪い返し、倒幕へと導いていく。

 

 

 

 

衣に次の二首を添え、晋作を送り出した。

「真心をつくしのきぬは国のため たちかえるべき衣てにせよ」

「惜しからぬ命ながかれ桜花 雲井にさかん春ぞまつべき」

山荘は上がって、室内を見学できる。

その後、福岡藩の藩政が急速に佐幕化し、次々と勤王派の処罰が行われた。

 

野村望東尼も、志士たちをかくまった罪で玄界灘に浮かぶ姫島に遠島となった。

中から障子を開けるときれいな紅葉を見ることができる。       山荘の隣には小さな資料館が設けられている。

晋作と望東尼の写真  於:平尾山荘資料館

姫島で投獄生活をする望東尼は、高杉晋作らの計らいで、福岡藩脱藩浪士 藤四郎らにより姫島から救出され、いったん下関の豪商白石正一郎の家に身を置き、その後防長に移り住んだ。

 

望東尼は、幕府との四境戦争(第2次長州征伐)を戦った後に結核で病死した高杉晋作を看取り、吉田の清水山に埋葬した。

 

病床の高杉晋作が詠んだ「おもしろき こともなき世に(を) おもしろく」「すみなすものは 心なりけり」と下の句をつけたと言われる。

おもしろき こともなき世に(を) おもしろく(晋作)

すみなすものは 心なりけり(望東)於:東行庵

高杉晋作もこうして縁台に座り庭を眺めたのだろうか?

 

 

 

望東尼は、晩年を防府天満宮のある山口県防府市三田尻に住み、そこで生涯を終えている。

 

知らなかったとはいえ、終焉の地は、私の実家のすぐそばであり、追って史跡やお墓などを紹介する。

 

 

 

 

 

 

 

 

2010.11.20

この翌日、功山寺、東行庵へ行った。

功山寺決起(回天義挙)へ飛ぶ

 

望東尼終焉の地(三田尻)も作成

故郷探訪 防府三田尻

 

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byいとま放浪記