英雲荘の門 明治天皇が滞在した記念碑が建つ |
英雲荘
子供たちとテンは福岡の自宅に残して、妻と山口に里帰りした。
お墓参りの後、英雲荘のリベンジ 2年前は、閉門していて中は見学できないと思っていたが、改装工事中だったそうで、昨年から開放されている。
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玄関棟、台所棟 大正時代に増築されたもので、客室や従業員の部屋、管理室などがある。 |
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屋敷の廊下には、篆書(てんしょ)でかかれたふすまがあちこちにあり、目を引く。 |
この施設は、1654年、2代長州藩主 毛利綱広が萩往還の終着地であることから三田尻御茶屋として、参勤交代の際の藩主の休憩や賓客の旅館として建設したものである。
英雲公と呼ばれた7代藩主重就(しげたか)の法名をとって英雲荘となった。 |
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英雲荘の中央には、最も古い建物大観楼がある。 中庭や2階がある。 |
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追加2014.4.13撮影 於:晋作伝プロジェクトツアー 大観楼2階から北側 |
大観楼の2階
大観楼の2階には、広い座敷が二部屋ある。この部屋は、幕末、京都の政変(八月十八日の政変)で長州に落ちた三条実美ら七卿が約2ヶ月滞在した場所である。 ここに、藩主毛利敬親や高杉晋作らが訪れ、国事を語ったとされる。
畳の縁の文様があっていることに注目 2014.4.13撮影
敷地の北側には、その当時、招賢閣(しょうけんかく)があり、多くの幕末の志士が集まった。 その中には、吉田松陰の親友である肥後の宮部鼎蔵(池田屋事件で討死)や坂本龍馬とともに、薩長同盟を成し遂げた土佐の中岡慎太郎もいた。
残念ながら、明治になって、招賢閣などは解体され、現在の英雲荘が残るのみとなっている。
庭には、ブルーシートがあちこちに被せられており、庭の改修工事を行っているとのことであった。
英雲荘の離にある花月楼(茶室) |
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手前が奥座敷棟、真ん中の茶色い2階建てが大観楼 |
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旧毛利家本邸と 毛利氏庭園
翌日は、旧毛利家本邸及び庭園(地元では、毛利邸と呼んでいる。)に出向いた。
毛利邸に来たのは、姉貴の結婚式以来で、実に30年ぶりである。 (今は結婚式場には、使ってない。)
毛利家本邸は、元長州藩主である公爵毛利元昭が大正時代に庭園とともに建築したものであり、現在は国指定名勝となっている。 |
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ひょうたん池から観た旧毛利家本邸と毛利記念館 |
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毛利家本邸と庭園の建設にあたり、井上馨が、明治25年に多々良山の麓にあるこの地を選定したそうである。
大正5年に完成した毛利家本邸は、三田尻御茶屋の三田尻邸と区別するため地名から防府邸、多々良邸とも言われた。
庭園は広く、梅、桜、藤、サツキ、花菖蒲、紅葉と四季折々の景観が楽しめるようになっている。
今回は、花のないつまらない季節に来てしまったようだ。(^^ゞ
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邸宅から観た庭 (空がハレーション起こしてます。) |
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広間 洋間 |
書院造を継承し近代和風建築の粋を集めたと賞賛される毛利家本邸
60の部屋があり、和室にシャンデリアがあったり、襖や掛塾などの装飾品も美しく、見所満載である。
本邸の一部が、毛利博物館になっており、雪舟の「四季山水図」(国宝)や岩倉具視が主導して作成したと言われる「倒幕の密勅」、毛利元就自筆の三子教訓状(重要文化財)など約2万点の文化財等が所蔵され展示されている。
お盆とお正月の年二回しか、里帰りしないのだが、次は、春や秋の花々がきれいに咲いた時期にこの旧毛利家本邸と毛利氏庭園に訪れてみたいものである。
英雲荘にも庭の改修が終わったら、もう一度見に行ってみようかと思う。 |
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毛利家本邸2階からの眺望 遠く三田尻港を望む |
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屋根瓦に用いられた毛利の家紋 |
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濃厚な美味しさ |
塩味羹(しおみかん)と銘菓舌鼓
防府天満屋でお土産を購入した。
職場のお土産の他に、家で食べるお土産も買った。
天満屋のおばあちゃんのお勧め 極上塩味羹(しおみかん)と銘菓舌鼓 ちょっと高いけど、地元でありながら食べたことがなかったので買ってみた。
どちらも、美味しかった。
2013.8.16 |
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柔らかい求肥(ぎゅうひ)の中に白餡が入っている。 |