甘木鉄道大刀洗駅舎内にある大刀洗平和記念館に行って来た。

ここでは世界で唯一、復元された97式戦闘機を見ることができる。

2004.6.1現在

大刀洗平和記念館

気がつかなかったが、自分の住んでいる小郡市の隣町であった。

 

梅雨に入ったばかりであるが、今日は晴天である。

買い物ついでに妻も連れて行くことにした。

 

喉かな田園風景を通り過ぎていく。

 

15分くらい走っただろうか、うっかりすると見逃してしまうほど小さい記念館がそこにあった。

 

しかし、この看板を見た瞬間胸がドキドキと高鳴ってきた。

 

あの97戦に会えるのだ!

当時の大刀洗駅がそのまま資料館として使われている。

大刀洗航空隊は、西日本の陸軍航空隊発祥の地であり、東洋一を誇った戦略の拠点であった。

 

後には、飛行学校や航空教育隊となり大東亜・太平洋戦争の末期には特攻基地の中継基地となった。

 

爆撃から逃れた大刀洗駅(米軍は戦後使える施設は爆撃しないで残したと言われる。)

駅の構内にあったプラットホームの柱や地下道はそのまま残されている。

 

この駅で肉親との別れを告げ、10代の少年飛行兵が知覧や万世などの特攻基地へと出発したのである。

入館するとすぐに97式戦闘機(以下97戦)に出会うことができた。

ハレーションをおこして神々しささえ感じる。

 

97式戦闘機は、火力は弱いが巴戦からの正確な射撃で空の狙撃手と恐れられた、中島の名機である。

 

大東亜・太平洋戦争の2年前(昭和14年)に起こったノモンハン事件では、ソ連機を約1300機撃墜し、我の損失120機という驚異的な強さを見せ満州の制空権を守り抜いた。

 

なかでも野口戦隊(稲妻戦隊)においては50機足らずの97戦でソ連機530機を撃墜し、戦死した操縦者はわずか9名であったという。

もちろんPILOTの技量がすさまじく高かったことは言うまでもない。

 

しかし、この97戦があまりにも格闘巴戦能力に優れていたことが、後の大東亜・太平洋戦争における、一撃離脱戦法による重戦闘機主流という時代の変化に対応できなかった要因となったことは皮肉な事実である。

 

その輝かしい名機も老朽化していたが、終戦間際には航空機不足から特攻機として使われ南の海に消えていった。



【事後解説】
最新の検証では、日本側の航空機の損壊176機  ソ連側207〜360機とされる。

ソ連は、初戦で惨敗した後、ベテラン(英雄パイロット)であるクラヴチェンコ少佐がノモンハンでの指導にあたる。

T−16の火力と速度の特性を活かした攻撃「一撃離脱戦法」を徹底させ、日本側は後半劣勢となった。
もう数か月戦闘が続けば、日本側は壊滅的な被害を被っていたであろう。
逆に戦車装甲車は日本側73輌投入し損壊29輌、ソ連側は700輌を投入し損壊397輌

特に日本軍の対戦車砲、速射砲は高性能であり、砲兵の技量が高く(1000m以内であれば百発百中)
ソ連の戦車は、装甲が薄く、燃えやすいガソリンエンジン搭載であったため、手榴弾、火炎瓶などでも甚大な被害を被った。

参照:「ノモンハンの真実」古是 三春

平成8年博多湾から97式戦闘機が引き上げられた。

 

この機体は佐賀市在住の佐藤 亨さんの愛機であった。

当時この機に乗り込み出撃したのは、佐藤氏ではなく渡辺少尉であり、エンジントラブルのため、博多湾に不時着した経緯があった。

引き上げられた遺留品の水筒からその時のものであることが、判明したのである。

 

搭乗していた渡辺少尉は、その後知覧から沖縄に向けて別の97戦に乗り込み飛び立たれ戦死されている。

この97戦は佐藤氏からここ大刀洗平和記念館に寄贈されたが、甘木市、三輪町、大刀洗町はいっさい復元に協力してくれなかったという。

損傷の激しい機体を大変な苦労をして、ここの経営者らが個人的に復元に挑み完成させたものである。

 

鹿児島の知覧にはあれほどの施設を町が作っているといのにどういうことなのだろうか?

この設計図を参考に復元したそうである。

日の丸は丁寧に汚れを落とされ、塗り替えることなくそのまま保存されている。

(赤い塗料が解明できなかったそうである。)

97式戦の固定脚

後の海軍「零戦」のように当時も引込脚が速度重視の観点から主流になりつつあたが、この頑丈な固定脚がノモンハン事件では大いに役に立ったのである。

 

それというのも、ノモンハンの大平原において、どこでも離発着可能であったからだ。(引込脚だと折れる)

 

実際に不時着した僚機を追って着陸し、中から人事不省となっている将兵を引っ張り出して自機の胴体の隙間に押し込み、何度も救出に成功している。

 

 

 

全集から見渡せるようになっている。

 

 

 

知覧特攻平和会館と武家屋敷のページへ行く

筑前町立大刀洗記念館OPEN ↓

 

 

最後に

 

 

ほとんど97戦の話しになってしまったが、こうして、戦闘機を熱く紹介していると戦争を賛美していると捉える人もいるだろう。

 

もちろん戦争は反対である。
誰も望んでいるものはいないだろう。

だが、それは今だから言えることである。

当時は軍国主義はお互い様であり、生き延びるために、そして国の誇りをかけて戦わなければならない弱肉強食の時代だったのだ。

 

戦争というものから目をつぶるのではなく、彼らがいかに戦い、いかに死んだのか、後生に伝えていかなければならない。

国の犠牲になった可哀想というだけでは彼らの死は本当に無駄死にとなってしまう。

 

彼らの尊い犠牲があり、生き残って生かされている我々がいるのである。

 

悲惨な戦争は、決して繰り返してはいけない。

 

だからといって、過去の戦争を自虐的に反省し、卑屈になる必要は全くない。ましてや、愚か者扱いするのは、平和ボケの奢り以外の何ものでもない。

 

誇りを失った国は、世界に平和が訪れる前に自ら崩壊してしまうだろう。

 

多くの者は、もしもやむを得ない事態が生じたときは国を故郷を愛する者を守るために命をかけて戦うであろう。

 

04’ 6. 1

 

「瑠璃の翼」山之口洋著(文藝春秋)

 

瑠璃の翼」山之口洋:太平洋、大東亜戦争の縮図とも言うべきノモンハン事件を題材にした小説仕立てのドキュメントである。

(ノモンハン事件はあの司馬遼太郎ですら、あまりの酷さに書くことができなかった題材である)

悲惨な地上戦を伏線に航空戦を主に書き上げられている。

著者の祖父 野口雄二郎を戦隊長とする当時最新鋭の97式戦闘機部隊、稲妻戦隊がソ連から満州国境の制空権を守り抜いた。

この少数精鋭のPILOTたちの物語に涙は禁じ得ない。

 

大刀洗平和記念館と97式戦闘機 ↑

筑前町立大刀洗平和記念館

個人経営であった大刀洗平和記念館が2009年筑前町立となり新たにOPENしている。

開館に伴い「福岡航空宇宙協会」から寄贈された零式艦上戦闘機三二型

翼端が切り落とされた形状になっているのが特徴

こちらも97式戦闘機と同様現存する唯一の機体である。

旧記念館から97式戦闘機も引き継がれて展示されているが、こちらは撮影禁止であった。
(となると前のレポートが貴重になるので、97戦の画像を大きくした。)

また、97式戦闘機を単なる特攻機としか扱っていないのが不満であった。

ノモンハンで活躍した名機であることもプロペラの後ろの機関銃についても、何の説明もなく残念である。

記念館から道路を挟んだ向かい側に大刀洗駅があるが、旧大刀洗記念館がカフェになりまだ残っている。
T−33も健在である。

甘木鉄道大刀洗駅

追加 2013.12.28撮影

 

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byいとま放浪記